先人の知恵を再認識しよう

 元旦は家族揃って、お屠蘇を飲むというのが日本の伝統的な風習だったが、このスタイルもかなり消えつつある。お屠蘇は大晦日の夜に、みりんか日本酒に屠蘇散を漬け込み、元旦に塗り物の酒器で年長者から若い人へ注いで一年の健康と安全と祈念するものであった。あまり伝統行事をしないわが家でも、屠蘇だけは私が作り家族で飲むようにしている。屠蘇散は酒売場で景品として貰えることも多いし、薬局で求めても安いものだ。
 屠蘇は結婚式の三三九度と並んで昔ながらの飲酒スタイルを守っているものだが、一般生活の中からはこのような盃事はどんどん消えつつある。これを簡易的に代替してきたのが乾杯だったが、「とりあえずビール」さえ消えはじめて、最初からめいめいが好き勝手なものを選んで飲むのが最近の主流になっている。
 好きなものを適量だけ自由に飲む。一見極めて合理的にも思えるのだが、本当にこれでよいのだろうか。携帯電話が典型的に表すように、現在の価値観や生活はどんどん個人中心の方向に進んでいる。企業の雇用や勤務体系も年功序列から能力給中心に移る中で、人間関係が希薄になっている。合理的な実績主義はよいのだが、物事がすべて個人の評価に落とせるわけではない。
 元旦のお酒から話が飛躍してしまったが、今年は伝統的な飲酒シーン、飲酒スタイルの意味を見直していきたいと考えている。昨年使われていた公共広告機構のコマーシャルの中で「日本人にはニッポンが足りない」というメッセージがあった。悪しき因習は改めなければいけないが、盃事の中に込められた先人の知恵も再認識して、現代的な飲酒スタイルを再構築していこうではないか。

2004年01月08日掲載