サイダーとペリーの話

 日本人にサイダーと言えば、さわやかなソフトドリンクのことだが、イギリスではリンゴ果汁から作られたアルコール濃度2〜8%の発酵発泡酒を指す。リンゴはイギリスを代表する果物とされているが、ケント州、サフォーク州などの産地では、365種もの異なるサイダー用リンゴが栽培され、収穫量全体の45%がサイダーになるという。昔は石臼で潰したリンゴをむしろに重ねて果汁を絞り木樽の中で発酵させたが、現在ではイーストや炭酸を加えた量産サイダーが出回っている。濃縮還元ではないリンゴ果汁だけを使って発酵させた、添加物なしの酒だけがリアル・サイダーと呼ばれるそうだ。
 古くから飲まれていたにもかかわらず、サイダーの存在はエールの陰に隠れ、ぱっとしなかった。それが変ったのは今世紀に入ったころ。まず、猛暑の夏が続いた時、20代後半を狙ったキャンペーンが功を奏した。この年齢層は、スピリット類を甘いソフトドリンクで割ったアルコポップと総称されるボトル入り飲料で10代の終わりにアルコール洗礼を受けた「アルコポップ世代」だ。それ以前の、苦いビールや喉の焼けるウィスキーをやせ我慢して煽っているうちに酒の味を覚えた世代と異なり、よりイージーに飲酒習慣を身につけたとされる。
 彼らはじきにアルコポップを「子供向け」「甘すぎる」と感じはじめる。そこへ大手ブランドが、ラガーのノリでサイダーを飲もうと訴えたのが当たった。きーんと冷えたドラフト・サイダーも登場、トレンディなバーに置かれるようになる。ブームに乗って、女性専用の酒と言われていた、梨の果汁でできた酒「ペリー」もメジャー・リーグに上がって来た。酸味がなくアルコポップ世代にとってはさらに馴染みやすい。この人気が、大手ブランドの量産サイダーだけでなく、国産果実を使って少量生産されるリアル・サイダーとペリーのファン増にも繋がることを、国内の中小メーカーは期待している。
 ところで、南西イングランドでは、古い果樹園の多いサマーセット州を中心に、樹木信仰に起源を遡る「ワッセイリング」という儀式が今も行われている。ビール造りに関連した儀式がイギリスにはないことを思うと興味深いが、これはリンゴの「お祓い」儀式だ。1月中旬の夕方に村人が集まり、温めたサイダーとリンゴケーキをいただく。女性に出されるケーキには豆が一粒だけ入っている。それに当たったら当夜の女王だ。1本の木を選び、トーストをサイダーに浸して枝に刺す。そして、前年のリンゴで作られたサイダーが根元に景気良く撒かれると、大騒ぎの始まりだ。ショットガンが寒空に向かって撃たれ、布の端切れを蓑のようにまとった精霊役たちがバケツや太鼓を叩き、歌に合わせて踊りあかす。
 しかし、この郷土色豊かなお祭りもまもなく消えるのでは、と心配されている。過去60年でイギリス全体の果樹園面積は1/4に減った。宅地開発が進むエリアでは9割もの果樹が破棄されたそうだ。せっかくサイダーやペリーの人気が上がり果物の需要が増えても、これでは海外からの買い付け量が一層増えるばかりだ。20年前にスタートした「ナショナル・アップル・デー(10月21日)」は、イギリスの自然を守ろうとする動きとも同期して知名度が上がっている。もっと純国産のサイダーを飲みたい、という消費者の声は、イギリスからリンゴと梨の木が永遠に失われるのを止めることができるかもしれない。(ふくおかなお:ロンドン在住)

月刊 酒文化2011年04月号掲載