禁酒文化と「悪魔の業」―インドネシア バンダ・アチェ

 日の昇る前、暗闇に白く浮かび上がる通りの家々に礼拝を呼びかけるアザーンの声が響き渡る。この町ではイスラム教が人々の生活を守り、毎日のリズムを刻んでいる。スマトラ島の最北部にあるバンダ・アチェでは厳格なイスラム教が守られている。以前、この地域は独立運動を続けていたが、インド洋津波被災後、政府と協働して復興を進める中で独立要求を取り下げ、幅広い自治権を勝ち取った。州内ではイスラム教徒の法律であるシャリーアの執行が認められ、飲酒は厳しく制限されている。今回、まずはイスラム教の禁酒について確認した上で、バンダ・アチェの酒事情について述べたい。
 イスラム教徒は経典から導き出されたシャリーアという法に基づいて生活をしている。この重要な経典のひとつであるクルアーン(コーラン)の中には、飲酒に関していくつかの記述がある。特に5章『食卓』の第90節が引用されることが多い。「あなたがた信仰する者よ、誠に酒と賭け矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい……」と述べられている。イスラム教徒にとって飲酒はまさに「悪魔の業」なのである。禁酒の厳格さは地域によって異なるが、厳正な執行を求めるバンダ・アチェでは、イスラム教徒の飲酒が宗教警察に見つかった場合、鞭打ち7回の公開処刑となる。異教徒の飲酒には適用されないが、決して良い顔はされない。
 さてこのような経緯からバンダ・アチェで酒を見つけることは難しい。イスラム教徒として正しい生活が保障され、かつ酒に代わるものは無いだろうか。アチェの人々もきっと探したのだろう。そのひとつはアチェ・コーヒーか。コーヒーショップ店にはいつもたくさんのアチェ人が集まり、甘い琥珀色のコーヒーを啜っている。カウンターの奥ではマスターが豆の入った小さな網を器用に操ってコーヒーを入れている。腕一杯に広げた高い位置から糸を引くようにカップに注いでいく。濛々と立つ白い湯気の中で香しいコーヒーの香りが揺れていた。
 しかし、それでも酒が飲みたい。スーパーマーケットは絶望だ。隣州のメダンであれば、当然ビール缶が並んでいたであろう棚には影も形も見当たらない。無いと余計に飲みたくなるのは、さすがに「悪魔の業」というのも納得がいく。
 そこで現地に詳しい方に教えてもらうと、酒を探すためには中華料理店を探すか、高級ホテルのバーラウンジを探すしかないという。中華料理店に行くと、しかして、国産のビンタン・ビールにありつけた。周囲の人々に配慮してか、ボトルは机の上には置かれない。ホテルの方では、バーラウンジに行くとさすがにアルコールのドリンクリストが出てくる。ビンタン、カールスバーグ、バドワイザーやウィスキー類を頼むことができるが、国内価格から見ると非常に高い。このような状況のために非イスラムの人たちの中ではメダンやジャカルタなど州外に出た折に、酒を買い込み自宅で飲む人が多いようだ。ここでは酒を飲むのもひと苦労である。
 禁酒文化の国で意地になって飲む必要はあるのだろうか、やめればいいじゃないかと気の小さい僕は旅の終わりにはそんなことを考えつつ、ホテルのバーでビールを傾けていた。しかし、ふとテーブルの端に目を向けると、昼間に乗った車の運転士が缶ビールを飲んでいる! どこの世界にも鞭打つ人がいれば、鞭打たれる人がいるものだ。宗教警察の目を盗み、罪深さを感じつつも、イスラム社会の寛容さを信じ、日々の息抜きに飲んでしまうのだろう。そんな人間っぽい姿を見つけ、なんだかほっとした。
(にしだまさゆき・タイ在住)
2015年夏号掲載

月刊 酒文化2015年07月号掲載