イスラームを国教とするマレーシアの酒事情─寛容な多宗教社会の知恵が活きる

 マレーシアはイスラームを国教とする国であり、人口の約6割の人々がイスラーム教徒(ムスリム)である。コーランでは、「酒は悪魔の仕業」(5章90節)と示されており、医療目的などを除けば、禁忌の対象である。さぞかし、酒が飲みにくい国だろう、と思うかもしれない。
 しかし実際には、スーパーや個人商店に行けば酒を購入することができ、バーやパブも簡単に見つかる。最近は、クアラルンプールやペナンといった大都市であれば、ワイン専門店や世界の酒を集めたリカーショップが増えている。デイリーで消費するようなビールやワインには困らないだろう。
 ちなみにマレーシアは、日本の退職者が海外移住先として希望するナンバーワンの地位を10年連続で守っている国だ(ロングステイ財団調べ)。近年は移住者がずいぶん増え、ローカルフードとビールという最高のコンビネーションで飲食を楽しんでいる人も多い。
 地元の人がよく飲むのはビールだ。タイガーやアンカーといったシンガポール企業が製造するビールや、カールスバーグ、そしてギネスなどだ。伊勢丹やイオンといった日系スーパーでは、日本のビールや日本酒や焼酎も販売されている。
 マレーシアは酒類に対して関税や物品税、消費税と様々な税金がかかる。今年6月に筆者がクアラルンプールに訪れたときに、市内中心部のスーパーで値段を確認した。タイガービールの缶は80円から110円であり、ビンが240円〜300円であった。富裕層向けとまでは言わないが、マレーシアの平均的な収入の人が酒を飲むのはそれなりの出費となる。マレーシアの物価は日本のおおよそ4〜5割だ。酒の値段を2倍にすれば、日本人の肌感覚に近く分かりやすいだろう。
 なぜ、マレーシアはイスラームを国教とするのに、酒に対して寛容なのだろうか。
 マレーシアはイスラームを国教と位置位置付けているが、人口の60%を占めるマレー系(全員がムスリム)以外に、代表的な民族としては華人系(約25%)とインド系(約8%)がいる。華人系は仏教やキリスト教など、インド系はヒンズー教などを主に信奉する。こうした多民族かつ多宗教社会において、ムスリムではない華人系やインド系にとって酒は日々の生活の潤滑油でもある。
 マレーシアでは特定の民族や宗教の信徒だけで固まって住むことはほとんどない。通婚は少ないが、日々の生活ではモザイクのように多様な人々が入り混じって暮らしているのだ。他の民族の習慣や宗教に寛容でなければならず、地域コミュニティーは民族や宗教の垣根を超えて協力をしなければ成り立たない。
 こうした背景から、マレーシアのムスリムは自分に害悪が及ばない限り、非ムスリムが酒を飲むことに対して寛容であり、禁酒を非ムスリムに強制することはない。一方で、ムスリムの多くはイスラームの教えをしっかりと守り、ごく一部の人を除いて酒を飲まない。このような酒の扱いにこそ、マレーシアが多宗教社会で培ってきたバランス感覚が表れているのだ。
 マレー半島東部でタイに国境を接するクランタン州は、人口の9割がムスリムで敬虔な信徒が多いことで有名だ。こうした州でさえ、州都コタバルでは酒を問題なく入手できる。実際に、筆者はコタバルのレストランで華人系の友人や在住日本人と酒盛りをしたことがある。流石に酒のバラエティはないが、タイガービールやカールスバーグ、簡単なワインであれば扱っていた。
 もちろん、ムスリムの前でこれ見よがしに酒を飲むことは宗教に対する侮辱行為であるが、お互いの習慣というテリトリーを守りつつ、配慮していけばイスラームを国教とするマレーシアでも酒は楽しめるのである。
(かわばたたかし・シンガポール在住)
2016年夏号掲載

月刊 酒文化2016年07月号掲載