死中求活の戦士が崇めた赤ワイン

 各言語同様に、それぞれの時代に俗語は発生し、あるものは消えさり、あるものは残る。フランス語の教科書には出てこなくとも、カフェやビストロに行くと耳にするワイン、酒にまつわる俗語はいろいろある。例えば、”バロン”。「アン・バロン・ドュ・ルージュ、スィル・ヴープレ(Un ballon de rouge , s'il vous plaît.)」”赤ワイン一杯ください”という具合に、バロン(ボール)のような丸いグラスに注がれたテーブル・ワインを指す。カフェやブラッセリーのカウンターで、1杯安物の赤ワインを頼む時に使うフレーズだ。しかも、何故か赤ワイン用のバロンは14clで、白ワインのバロンは8clだと、決まっている。
 他にも「ジュ・ネパ・ドゥ・ピナール・ア・ラ・メゾン(Je n'ai pas de pinard à la maison.)」”家の赤ワインを切らしている”……のように”赤ワイン”を”ピナール”とも言う。この言葉は、第一次世界大戦の戦場で戦士たちに使われ、現在に至るのだそうだ。
 サラエボで起きたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位後継者の暗殺事件を切っ掛けに、欧州各国ほか中東、東アジアや大西洋、インド洋まで、世界中を巻き込んだ戦争、第一次世界大戦。”ポワリュ(毛深い人)”と呼ばれたフランス兵は、ドイツ軍からフランス北東部のアルザスとロレーヌ地方を奪取と祖国防衛に奮い立っていた。有名な塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフランドル地方海岸まで続くものとなり、特にフランス北部ピカルディ地方ソンム河畔での戦いでは、英、仏連合軍とドイツ軍あわせて100万人以上の犠牲者を出した悲しい歴史を持つ。
 この頃、庶民の飲むアルコールはシードルやビールだったらしいが、戦地にはワインの産地である南部、南西部出身も多かったという話だ。彼らにとって、日常的に愛飲していたワインの欠如は、家族や故郷を離れてなお、一層堪えただろうと想像する。戦場に飲料水の供給システムは無かったので、飲み物は貴重なものだったところへ、1914年の秋、兵士の士気を鼓舞させる目的で、フランス南部ラングドックやルシオン地方のワインが2000万リットル送られた。ワインは”ペール・ピナール(ピナール親父)”と呼ばれた。その後、仏国戦争大臣は兵士に定期的にワインを提供する事を決定。しかも、フランス全土を縦断する形で北上する樽入りワインを積んだ貨物列車のコンボイは、ワインをより多く消費させる国を上げてのキャンペーンに一役買った結果となった。資料によると1916年には兵士1人1日250ml見当で計算された量が戦地に送られ、1917年には750mlになっている。戦争の長期化に伴い、国はこの”士気喚起剤の投与”の増加を強いられたのかもしれない。
 当時の風刺画や頌歌には、兵士の”ペール・ピナール”へ尊意が生き生きと表されている。1916年、塹壕戦で戦っていたルクレール兵士が書いた"ピナールへの頌歌"のほんの一部を拙訳すると、……
 やぁ、ピナール、大地の血潮。
 お前は温もり、そして、息抜き。
 ピナールが無きゃ、人ひとり居ない
と続き、この安ワインが戦場のモラルの保持に不可欠であったことは、容易に想像出来る。終戦時の新聞記事の中には”ペール・ピナールは、勝利の父だ!”と書かれたものもあったとか。同時代に兵士に書かれ戦地で歌われた”ピナール、万歳!”は、大ヒット? し、後のアルジェリア戦争(1954〜62年)でも、兵士の間で歌い継がれたという。
 1人当たり170リットルのワインを消費していた1930年代を頂点にして、フランス人のワイン消費量は減り続け、飲酒運転に関する法律が厳しくなった2003年以降は更に拍車がかかった形で、近年では1人年間50リットルほど(2010年統計)だという。が、第一次世界大戦勃発100周年記念の今年は今一度、フランス国民に自国産の”ピナール”を大いに飲んでもらい、ペシミストなフランス人のモラル・アップに、その効果を発揮してもらいたいと、切に願うところである。
(ともこふれでりっく・ノルマンディ在住)
2014年春号掲載

月刊 酒文化2014年05月号掲載