酒づくりのある暮らし
モンゴルの遊牧民の暮らしは、あたりまえに酒づくりがある暮らしとも見ることができ
る。夏から秋に毎日の作業として馬乳酒づくりがあり、週に何度かアルヒづくりがある。
街や旅行者向けのショップに行けば、ビール・ウオトカ・ウイスキーなどを容易に入手できるにもかかわらず、自分で酒を作る文化は健在である。酒は家庭ごとに異なる味わいや手法を持ち、生活に彩りを与えている。
日本では酒づくりは生活から切り離され、わずかに梅酒などの果実酒づくりが許されるだけだ。かつては味噌や漬物と同様に、酒は自分で作る身近なものであった。
自分で酒を作ることが全面的に禁じられたのは一八九九年。もともと自由であったものが許可制になり、醸造量が制限され、ついに禁止される(図表11)。これは酒税の増収の切り札であった。明治期には税収を増やすためにたびたび酒税が増税された。しかし、酒税が上がって酒の値段が高くなると、自家醸造が増えて税収が思うように増えない。自家醸造を禁止すれば、狙いどおりに税収は増えるというわけである。そして、よく言われるように日清戦争と日露戦争の戦費の多くが、こうして得た酒税によってまかなわれた。
当時、自家醸造による酒はどのくらいあったのか。『日本帝国統計年鑑』によると、一
八八四年は全国でおよそ五三万石で、清酒・濁酒全体の一五%を占めていた。自家醸造が盛んだった東北六県では、一九世紀末頃は常に二〇万石ほどあり、酒造業者の製造石数の七割近いボリュームとなっていた(図表12)。
これが二〇世紀を迎える時に抹殺され、今日ではまったく見ることがなくなった。
南九州の焼酎も自家蒸溜であった。いまでも、旧家にはかつて使っていた蒸溜器が残っていることがあるという。焼酎も自家醸造の禁止により、共同化、大規模化、産業化するように変えられ、生活から切り離された。
モンゴルの乳酒に見るように、酒はその文化における食の体系の一部としてある。醸造酒は他の発酵食品と同様に固有の価値があり、それを自由に作ることを制限されるものではない。蒸溜酒はさらに生活に組み込まれた蒸溜技術の一部としてもあったのだろう。薬品や香料を得るために蒸溜技術は、古くから家庭に入り込んでいた。酒づくりをふたたび生活の中に戻し、消費以外の接点を人々と酒が持つことは、酒をもっと魅力的にするはずである。これは、モンゴル遊牧民の乳酒のあり方から、考えるべき重要なテーマのひとつであろう。
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