私は日本酒が嫌いだった

 ドイツとスイスで高級日本酒専門の輸入販売会社を経営し、2011年に日本酒造組合青年協議会から酒サムライの称号を頂いた私が、ドイツに渡る前までは実は日本酒に全然興味がなかった。と言ったら皆さんは驚かれるだろうか? しかしこれは20数年前の事で、2005年の年明けに「ドイツで日本酒を売るべし」というヒラメキがあり、半年後には長年勤めた会社に辞表を出して見ず知らずの業界に飛び込んだ。
 まずは日本人経営の店に恐々と営業を始めたが、気がついたのは店主が日本人目線で品揃えしている酒と、ドイツ人が好む酒は違うということだ。また、日本レストランの従業員はドイツ語はおろか英語も満足にできず、客がメニューを指差した注文を調理場に伝えるのが精一杯。ドイツの中級以上のレストランでは当然の、お客の好みとサイフの中身を察して料理と酒を勧めるサービス(セールス)は期待できない。「お酒の特徴を簡単に記したドイツ語メニューをつくりましょうか?」、あるいは「お酒の勧め方をサービスの方にレクチャーしましょうか?」といった提案は、包丁一本でドイツに渡って店を築きあげた、誇り高いオーナーシェフには煙たがられる。「ガイジンにはホンモノの日本酒の良さなんて、わからないよ」。
 ドイツには „Was der Bauer nicht kennt, frisst er nicht.“農夫は知らないものは食べない―ということわざがある。ドイツ人は食に関して非常に保守的であるが、「それなら、知ってもらえばいいじゃないか」というのが私の答えだ。開業半年後の2006年、日本酒輸出協会の松崎晴雄先生にご協力願い、蔵元数社とフランクフルトで初めてプレゼンテーションを行った。ドイツ人のメディアと料飲業者を対象としたこのイベントは、当地の有力紙やラジオでも大きく取り上げられ、いくつかの引き合いもあったがすぐには成約には結びつかなかった。その後レストランへの飛び込み営業の傍らに、ドイツ語ホームページやニュースレターを通じてプレミアムSAKEの定義づけ、味わいや造りに関する広報、ドイツ人スターシェフとの日本酒ディナーの開催や、スローフード協会での試飲セミナー、フードジャーナリストとの交流などの広報啓蒙活動を粘り強く続けた結果、2年目を過ぎる頃から徐々に成果が出始めた。
 ドイツ人は石頭で、一度思い込んだら簡単に考えを変えない。あるグルメメッセに出展して純米酒、吟醸酒の試飲を冷やで提供していたところ、「日本酒は燗で飲まなくてはイカン」と、日本人の私に向かって説教を垂れるドイツ人のオジサンがいたのには驚いた。彼はビジネスで訪日したことがあり日本通を自認している。「でも香りが高い吟醸酒などは、冷やのほうがおいしいですよ」とニッコリ笑って冷酒の瓶を差し出すと、躊躇するオジサンを横目に20代半ばくらいの若者が、すっと試飲グラスに手を伸ばす。数種のお酒を試した後に「はじめてSAKEを飲んだけど、おいしいね」と、安くはない純米吟醸酒を躊躇なく買ってくれたり、純米酒を気に入ったお洒落なブロンド美人が隣のスタンドを見ていた友人に「SAKEは冷で飲むのがCool(粋)なんだって」と、得意になって勧めてくれる。ドイツ人でも若い世代は先入観がなく、新しい味覚に関しても好奇心旺盛だ。
 堅固で高くそびえる壁にひたすら楔を打ち込んでいるようなドイツでの日本酒普及販売活動であるが、あのベルリンの壁があっけなく崩れたように、若くオープンな世代の共感を得る事で楔を打ち込んだ穴が広がり、市場が花開いていくのではないだろうか。
(上野ミュラー佳子・クローンベルク在住:ウエノグルメ代表)

月刊 酒文化2012年02月号掲載