生まれたばかりのロンドン日本酒市場

大久保里美

 私がロンドンにやって来たのは2005年のこと。日本を出る前は“サケ”はスシやテンプラ同様、ロンドンの誰もが知っているものだと思い込んでいた。これだけ世界中で日本食がブームなのだ、イギリスにもアメリカのように大きな日本酒のマーケットが存在すると思っていた。しかし、実際は「サケって何???」という人がほとんどで、日本酒を少しでも飲んだことのある人は「ああ、サケってのは日本の米から出来たワインで、温めて飲むものなんだ」と得意気に友人達に話して聞かせるくらい。勝手な思い込みとは言えギャップの大きさに正直ショックを受けた。
 都内のホテルに勤めていた時には、日本酒を提供する温度の1度〜2度の違いにも神経を尖らせ、いかにおいしい温度で日本酒を飲んでいただけるかと心を砕き、酒器にも気を配った。この日本酒にはどんな米が使われていて、どんな土地柄で、等と日本酒談義に花を咲かせていたことが脳裏をよぎったが、いま目の前にあるのはまったくの別世界。“サケ”が万国共通語になる日はまだまだ遠いと前途多難を思った。
 勤務している「ZUMA」は高級日本食レストラン。今ではロンドンのほか、香港、イスタンブール、ドバイなど世界7カ国に出店する。私は唎酒師として日本酒コーディネートするつもりでロンドンにやってきたのだったけれど、そんな状況はない。“サケ”を初歩の初歩からわかりやすく伝えるだけの日々が続く。このお客様ならひょっとしてと思って時々商品のことを話してみたが、理解してもらえることは無かった。注文されるのは、安価で飲みやすそうな商品か、反対にとにかく高価な商品、そして熱燗が圧倒的だった。
 それがここ数年でだいぶ変わった。「私は純米大吟醸しか飲みません」とか「吟醸の酒が好き」だとか、「今日は寒いから熱燗を飲みたい」という人が珍しくなくなってきたのである。明らかに飲み分けが進んでいる。銘柄を指名することも珍しくなくなったし、他店で飲んだ酒が旨かったので、あれに似た酒をくれと言う声も聞く。
 日本酒ファンが着々と増えていることは、輸入業者の数を見てもわかる。6年前に渡英した頃は日本食品の卸業者は4社くらいしかなかったが、現在は日系が8社、それ以外に韓国系や中国系もあって10社は軽く超える。聞けば、有名チェーン店やフュージョン系レストラン、弁当を販売している中国系の日本食店等もすべて入れると、いま、ロンドンにはおよそ300件もの日本食店が存在するのだそうだ(ロンドンの境界線も未だに曖昧なので、かなり大雑把な数字だと思う)。このほかに日本酒を扱っているレストランは中華、韓国、フレンチレストラン、バー等などさまざま。有名なミシュランの三つ星レストラン「Fat Duck(ファット ダック)」には、料理とペアリングできるグラスワインのコースに日本酒がセレクトされているのは有名な話。Fat Duckのシェフを始め、他のミシュランスターのレストランのシェフが、弊社で食事をする際は日本酒しか飲まない、ということもよくある。「日本食ならドリンクはもちろんサケだろう」と言うのだ。皮肉なことに日本人客にはワインの方が好まれたりするのだが……。
 数年前からはスーパーマーケットや有名百貨店でも、日本酒や梅酒を見受けるようになった。日本酒に興味のあるというワインソムリエやシェフの話もよく耳にする。そして日本酒だけでなく酒粕の需要もごく僅かだが増えているように思う。
 現在イギリスでも日本酒の唎酒師の資格を取得することができ、ヨーロッパをはじめ世界各国から取得希望者が集まる。私の友人の一人である有名ナイトクラブのオーナーも最近合格した。日本酒のことを知ってうれしそうに話す姿を見ると、やはり“いいな”と思う。そして、アメリカのようにもっと沢山の人に日本酒に興味を持ってもらいたいと思う反面、しっかりと知識を身につけた人間に関わって欲しいとも思うのだ。
 日本酒の需要が海外で急に増えており、扱いたがる人が大勢いる。販売業者が増えて以前よりも容易に入手できるようになった。誰でもすぐに日本酒を扱えるのは悪いことではないけれど、どうしても管理がおろそかになりがちだ。取り扱う者の意識が低く、酒の知識も乏しく、きちんとした商品説明ができない売場やレストランが増えている。商品ばかりが先走りするのは気持ちのよいものではない。丹誠込めてつくられた酒が、乱暴に扱われるのは悲しく腹立たしいものだ。
 まだまだ私達にできること、やらなければならないことがたくさんある。“サケ”が万国共通語になる日を夢見て、今日も足早に仕事場へ向かう。
(おおくぼさとみ・Zuma Restaurant・http://www.zumarestaurant.com/:ロンドン在住)     ■

月刊 酒文化2012年04月号掲載