新潟の酒といえば、「淡麗辛口」というのが一般的だが、美の川酒造株式会社は旨みやコクを追求してきた珍しい蔵だ。今回は、雄町の契約栽培や、山の伏流水を使った酒づくりなど、ユニークな挑戦を続ける同社の歴史と現在を紹介する。
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例の「米百俵」ですっかり有名になった長岡だが、それ以前の一般的なイメージは、雪に埋もれる豪雪の街といったところだろう。その長岡に、今年は雪がない。2月だというのに、街は雨に濡れているのだから拍子抜けだ。温暖化のせいか年々雪は減っているが、それでもここまで少ないのは珍しいという。
美の川酒造株式会社は、「米百俵」の産みの親、河合継之助が命がけで守ろうとした長岡城から南へ下った、三国街道沿いにある。
街並みに旧街道筋の面影はないが、通りから少し下がったところにある大正時代の土蔵を生かした「美の川酒蔵館」の瀟洒なたたずまいは、かつて「殿様酒屋」と称されたという往時をかすかに偲ばせてくれる。
「当社の酒は、祖父の代まで甘口でしたし、現在でも無理に軽く、華やかにとはしないようにしています。新潟の酒といえば『淡麗辛口』というイメージが強いので、よく『これは新潟の酒じゃないな』と言われますね」(美の川酒造株式会社代表取締役社長 松本英資氏)
同社のかつての屋号は「美濃屋」。ここからもわかるように、先祖は美濃、つまり現在の岐阜県の出身らしい。「美の川」ももともとは「美濃川」だった。
だからというわけではないが、同社の酒は、さすがにかつてのように甘口ではないものの、辛口でもしっかりしたコクと旨みのあるものが多い。
新潟の蔵のなかでは、淡麗辛口という流れに抗して独自路線を行く数少ない蔵の一つだ。
庄屋を兼ねた「殿様酒屋」 |
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松本家の先祖が、なぜわざわざ、美濃から豪雪の長岡までやってきたのかを説明するには、やはり長岡藩の歴史を少しひもといてみなければならない。
現在の長岡の街づくりをはじめたのは、同じ越後の国、六日町を本国とする坂戸城主、堀直寄であるという。元和4年(1618)、直寄が村上に移封され、譜代大名牧野忠成が長岡藩を創始して町づくりを引き継いだ。
牧野家はもともと東三河、現在の愛知県の出で、上野国勢多郡大胡、越後頸城郡長嶺城主を経て、五代忠成の時に長岡に入った。美濃屋がいつから牧野家に付き従っていたかは定かではないが、三河の隣国美濃の出身であるらしいこと、代々牧野家に重用されていたらしいことを考えれば、かなり古くからつながりがあったのかもしれない。
その美濃屋が酒造業を始めたのは、河合継之助が生まれた年、つまり文政10年(1827)のこと。当時は近隣町村の徴税を預かる庄屋を兼ねており、「殿様酒屋」と称されていたという。事実、同社の美の川酒蔵館に納められている書画やひな人形などからは、藩主の信頼厚い御用商人の暮らしを垣間見ることができる。
だが明治元年(1868)、中立を保とうとした河合継之助の努力もむなしく、長岡藩は官軍の猛攻を受け、城下の80%を焼失する。
ただ美濃屋自体は、蔵の一部が焼け残ったものか、あるいはそれまでに蓄えた財力によるものかは定かでないが、すぐに酒づくりを復活させたようだ。
長岡郷土資料館に残る明治22年(1889)の宣伝ちらしらしきものからは、間口の広い広壮な店構えに雁木を突き出し、その下にこも被りを並べたようすが描かれており、当時の美濃屋の隆盛ぶりが見てとれる。このちらしは、電話局の宣伝のために作られたともいわれ、美濃屋の電話番号は「99番」。この番号から、市内でも早くから電話を入れたことがわかり、これも隆盛の証となろう。
欄外には「清酒 美濃川」とあるのに、絵のなかの樽には「美の川」と書かれているところをみると、ちょうどこの頃表記を変えたのかもしれない。
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