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北海道の開拓が本格化したのは明治以降のこと、わずか一三五年ほどで五六六万人が暮らすようになりました。酒造業は北海道の重要な産業です。ビール・ウイスキー・ワイン・焼酎の有力メーカーがあります。清酒のメーカー数は一五社。今回は男山(旭川市)と北の誉(小樽市)を訪ね、最北の地の酒蔵の歩みをたどります。
世界のサケ北海道の男山
アメリカでもっともよく知られた清酒は北海道の男山でしょう。男山の海外輸出量は年間八〇〇石ほど、その多くがアメリカに輸出されています。小さな酒蔵の年間製造量に相当するボリュームです。
ボリュームもさることながら、特筆すべきは、男山がアメリカで「プレミアム・サケ」の代名詞となっていることです。昨年アメリカの高級紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」が、日本酒を取り上げました。「最近、上質なサケを冷やして飲むことがブームになっている」と報じた時に使われたのは男山の商品写真でした。
男山株式会社社長の山崎與四良氏は、「輸出は、昭和六〇年ごろ日本名門酒会(酒類卸の岡永が主催する地方銘酒の普及団体)が上質な清酒を海外に紹介し始めた時に賛同したのが最初です。スシや和食が広がるとともに着実に伸び、今後の有望市場と位置づけています」と言います。
北の灘に残る三つの蔵
男山のある旭川にはかつて四〇もの清酒メーカーがあり、北の灘と称されていました。
旭川一帯は、明治二二年に岩見沢と上川を結ぶ上川道路の開通後に、開発が本格化します。多くの屯田兵(普段は農地を開拓する軍人。国策として士族から開拓民を募った)が入植し、厳しい自然と闘いながら農地を増やしていきました。交通網が整い旭川が北海道の交通の要衝になると、明治三二年に軍隊(近衛第七師団)が置かれ、さらに近隣の石炭産業が軌道に乗ったことで、一帯は急速に発展します。酒の需要は大きく、続々と酒蔵が誕生していきました。男山が酒づくりを始めたのもこのころのことです。
しかし、現在残っているのはわずか三社です。男山、大雪乃蔵(合同酒精)と高砂・国士無双(高砂酒造)ですが、昨年、千歳鶴(日本清酒)が高砂酒造を吸収したため、地元資本の独立の清酒メーカーは男山だけになりました。
名跡「男山」を継ぐ
時代変化と激しい競争のなか、男山が業績を伸ばし、存在感を維持できたのはなぜでしょうか。川原宗二氏(男山株式会社監査役)のお話が、その理由を説明しているように思います。同社の沿革をうかがうと、彼は三つのテーマを軸に話してくださいました。ひとつは男山という銘柄の由来、二つは数々のコンクールの受賞歴、三つは資料館の開設です。
男山は寛文年間(一六六一〜一六七三)以降、江戸期を通じて銘酒の筆頭にあげられた銘柄で、当時の文献や書画の多くにそれを見ることができます。現在は陸奥男山や伏見男山のように産地名を冠した銘柄が各地に見られ、その数は一五社前後と言われます。
旭川の男山は、昭和三〇年代の終わりごろ本州に市場を求め始めました。いち早く全国市場に目を向けたことで、こうした実態や歴史を知ることになりました。同社の創業は明治三二年と、酒蔵として古くはありません。しかし、名声を博した男山を名乗るからには、その後継者としてふさわしくありたいと考えたと言います。そして、江戸期の男山に関する文献や美術品を収集し、蔵元の子孫から資料を譲り受け、「御免酒」や「木綿屋」という男山の時代を画する故事にちなんだ商品を開発し、銘柄価値の向上にエネルギーを注ぎました。川原氏は「新しい蔵は歴史が欲しい。それが『男山』襲名という気持ちに向かわせたのだと思います」と言います。
欧米から東京そして北海道へ
男山の受賞歴は素晴らしいものですが、同社の特徴として、国際的に権威あるものを強く志向したことがあげられます。男山は昭和五二年に国際コンクール「モンデセレクション」で金賞に輝きます。これは清酒として初めてのことでした。一昨年はイギリスの「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ」でも、初めてゴールドメダルを獲得し、当初の意志は今も貫かれています。
「昭和四三年ごろ清酒がだぶつき始めましたが、当時、北海道ではみな灘や伏見の酒を欲しがりました。体力のない者が生き残るには銘酒としての評価を高めるしかありませんでした。日本人は外からの評価に弱い。旭川で売りたかったら札幌で人気になること、札幌では東京、東京ではニューヨークやロンドン。そう考えて海外のコンクールへの出品を考えたのです」と川原氏。
資料館は五年の準備期間を経て昭和四三年にオープンしました。今でこそ珍しくありませんが、製造の現場を見せる酒蔵は当時としては画期的なものでした。近年は年間一五万人がコンスタントに訪れ、その三分の一を台湾など外国からのお客様が占めています。
早期に蔵を一般に公開したことで、お客様との付き合い方が変わったのでしょう、蔵の敷地は公園のように整備され、夏の七夕と曲水の宴、冬の蔵開放など四季折々に手づくりのアットホームなイベントをおこなうようになりました。観光地でもある北海道の強みを生かして、世界への情報発信力を強化するとともに、地元の人に愛されるという命題を、男山は見事に両立させているように見えます。
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