酒は涙かため息か

 韓国で一時、スタンドバーが大流行したことがある。一九八〇年代の中ごろだったか。韓国のこの世界は流行が激しく、突然、どーっと流行ってはいつの間にか消えてしまうということを繰り返している。
 たとえばぼくは一九八〇年代後半に四年間ほどソウル暮らしの空白があった。再度、ソウル暮らしを始めたのは一九八九年一月だったが、その時、ソウルの「ウォーター・ビジネス」の世界からスタンドバーが消えて「ホプ」が登場しているのに驚いたことがある。いたるところ「ホプ」とかかれた看板だらけだった。「ホプ」とは何ぞや?
 最初の印象でいえば、業態はビアホールのようだった。とするとビールの原料になる「ホップ」のことか。つまりホップのきいた本物の味のビールというわけかな?などと何気なく思っていたのだが、ある日、そうではなくドイツ語の「HOF」と分った。ドイツ語には「何とかホーフ」という地名や人名がよくある。ドイツ語でどうやら村とか広場といった意味らしい。
 韓国人もFの発音には弱い。そこで韓国人たちはFはPと発音する。つまりHOFがホプになったというわけだ。ホプもしばらくするとすたれたが、今でも少しは残っている。
 その後は「カペ」つまり「cafe」が流行っている。こちらはウイスキーやワインが出るから高級化ということになるだろうか。ちなみにホプの前は「キョンヤンシク(軽洋食)」といって食事を兼ねたビアホールが流行った。「軽洋食」なんていうレトロ風のネーミングは懐かしく実にいいですねえ…。
 ところでスタンドバーも懐かしい。そのスタイルは広いワンフロアーをいくつかのコーナーに仕切り、それぞれのコーナーが独立してカウンターバーを営業するというものだった。いずれも一〇個ほどの止まり木で、カウンターの中には主人のおネエさんが一人いて、コーナーごとにケンを競っていた。これがソウル独り暮らしには楽しかった。毎晩のように通い、おネエさんと四方山話をしながら世情探索をしたものだ。
 スタンドバーというかカウンターバーは独り酒に格好なのだが、韓国人というのは食事もお茶もお酒も、一人ではやれない寂しがり屋だ。そのせいだろうかスタンドバーもそのうちすたれてしまった。
 たまには一人で静かに飲みたい外国人、とくにぼくのような日本人のおじさんは困る。そしてやっとバーがあるお店を職場に近い中心街の光化門で見つけ、一〇年来通っている。酒そのものよりも中年の女主人との四方山話が楽しい。
 ここではぼくが座る止まり木のすぐ後でピアノの生演奏をやっているから、ぼくの専属のようなものだ。韓国人はキープはほとんどやらず必ずウイスキーは一本空けてしまうが、ぼくはキープしてちびちびやっている。このカウンターには同じような年格好のライバルが二人いて、一人は無名の作家でもう一人は正体不明ながらやたら博識の江戸っ子(いやソウルっ子?)風べらんめえ氏。
 韓国には日本と違って「酒は涙かため息か」とか「悲しい酒」といった、酒に思いを託した人生演歌はない。独り酒がないのもそのことと関係があるかもしれない。韓国人は酒そのものは大好きだが、酒にことさら意味付けはしないようだ。しかしライバルたちの風情をながめ、そして時に言葉を交わしながら、韓国人も実のところ酒に思いをかけているという感じがするんですねえ。
(くろだかつひろ:産経新聞ソウル支局長)

月刊 酒文化2006年05月号掲載