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明治らしさ、江戸らしさ |
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−│明治や江戸の焼酎造りと今の焼酎造りは、簡単に言うとどこが違うのですか。
「今の焼酎造りは、最初に米麹で醪を作り、そこに蒸したいもを入れて発酵させるという二次発酵方式で、発酵に使う微生物は、酵母と麹だけです。この方式は、大正の初めに確立したもので、それ以前はどんぶり仕込みと言われる、酒母造りをしないで、最初から一度に米といもを入れてしまう方法でした。
このやり方の場合は乳酸菌などのバクテリアも上手に利用して造るわけですが、コントロールが難しいし手間もかかる。清酒で言えば、生もと造りと同じコンセプトです。この点が一番大きな違いになります。
最初にこの造りをやると聞いた時は、とても驚きました。私が父から教わって以来の焼酎造りの常識を覆す方式でしたから。その時は、まだ副杜氏でしたが、杜氏が『もうこんな造りはやりたくない』と言っていたのを覚えています。
あの頃は、普通の焼酎も一緒に造っていましたから、菌や匂いが移ることが心配で非常に神経質になっていました。それから、常務の要求レベルがまた厳しいのです。ただ、きれいに造るのでは、駄目だと。明治の焼酎なら明治らしさを、江戸なら江戸らしい味わいにならなければいけないというのですが」
−明治らしい味、江戸らしい味とはどういうことですか。
「江戸時代の造りでは、いもの皮を剥いて仕込んでいたという記録が残っています。あの頃は、想像するに、献上品や自家消費として造っていたので、美味しいものを造るのに手間暇を惜しまなかったのでしょう。自分で飲むものを造るとなると人間手間を惜しまないものです。
しかも驚くことに当時は、醪の中に絹の袋に入れた笹の葉を黒焼きにした炭を漬けていたのです。今で言う活性炭の役割を果たしていたものと思います。だから、味の面でも繊細で案外現代的なすっきりとしたものになっています。
まあ、贅沢の限りを尽くして焼酎を造っていたわけです。こういったことは、文献を調べていく中でわかりました」
−明治時代になると……。
「江戸もそうですが、明治時代もまだ腐造させないノウハウが確立していません。麹も今の焼酎麹ではなくて清酒麹を使っています。当時は、混沌とした社会情勢の中で、進取の気性が芽生え始めた時代でもあります。味も今の焼酎よりも複雑なものでした。一方で、焼酎製造もそれまでの自家消費中心から商品としての酒造りに変わり始めたので、造りも少しずつ合理化されて行きます。
今の感覚で造ってうまく行き過ぎると、どうしても無難なものになってしまう。それでは駄目なのです。ぎりぎりのバランスの中に明治の焼酎の持ち味があると考えているわけです」

現場と研究所の二人三脚 |
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「それを研究所で何度か試作して、ある程度解明できたら、いよいよ杜氏と一緒になって、取り組むわけです。醪の段階でよほど強い個性が出ていないと蒸留した後に違いが出てこない。明治らしさ、江戸らしさがそこになければいけないわけです」
「何が明治らしさなのか最初はわかんなかったけどねえ。これを仕込んでいる時は、本当に一晩中見張っていないと心配でしょうがないです。わざと、腐りかねないぎりぎりのところで醪を造ったりしますから。今では大体の骨格はできてきましたが、それでも醪の発酵が始まるまでの時間は毎回違うので、油断はできません。ともかく、常務のいう明治らしさを追求していったわけです」と杜氏。こうした、常識破りの造りを重ねる中で、薩摩酒造としては、新しいノウハウを生み出したようだ。
また、江戸の焼酎の醪は、他の焼酎のように液体ではない。
「米に対するいもの量が現代は一対五位ですが、当時は米が貴重だったこともあっていもが大体現在の二倍入っています。しかもどんぶり仕込みですから、いもが水分を一度全部吸ってしまう。発酵の始まる前に櫂入れをしても、硬くて竹の櫂棒が折
れたり、人間が持ち上がってしまったこともあります。それが、発酵が始まるころには、液体になって、ものすごい勢いで跳ねるわけです。桜島の噴火のように。それは見事なものです」
後程、折りよく発酵の始まったばかりのタンクを見せてもらった。確かに発酵中のどろどろした焼酎醪が、五〇〜六〇センチメートルは跳ねている。その音は薄いトタン屋根の下に居て夕立が降った時のような感じとでも言えばわかってもらえるだろうか。すごい迫力で、前日まで固体のようだったとは想像もつかない。 |
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