元禄以来の歴史を誇る小澤酒造株式会社は、テレビの旅番組などでもたびたび紹介される「まゝごと屋」の経営でもよく知られている。さて、酒造りでも他社にさきがけた革新的な取り組みが目立つ同社の、「お客様との直接のふれあい」戦略とは何か。
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卸問屋が軒を連ねる浅草橋を起点に、皇居北の丸をかすめ、四谷をとおって新宿にいたる靖国通りは、歌舞伎町を横目にJRの大ガードをくぐると青梅街道とその名を変える。
この道は、大都会東京の象徴である西新宿高層ビル街の脇をとおり、一路西へ。青梅市は、市としては東京のもっとも西にある。ここで青梅街道は多摩川と出会い、以降川を左眼下に眺めながら、山の縁にへばりついてうねうねと上っていくこととなる。上った先には東京の西の外れ奥多摩町があり、多摩川を堰き止めて造った奥多摩湖は、春の桜、秋の紅葉の時期には都心からたくさんの人びとが訪れる東京の奥座敷だ。
おっと、調子に乗って行き過ぎてしまった。今回紹介する「澤乃井」の小澤酒造株式会社は、青梅から奥多摩へ向かう途中、JR青梅線沢井駅のまん前にある。
本社兼工場兼小澤恒夫会長宅は駅に背を向け、門は青梅街道側、つまり緑の山裾を背にして街道越しに多摩川の清流を望み、茅葺きの会長宅や海鼠壁の土蔵など趣のある建物が並んでいるというわけだ。
甲斐武田の落武者がルーツ |
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同社の創業は、いちおう元禄15年とされている。わざわざ「いちおう」と断ったのにはわけがある。
「元禄15年に、幕府の役人毛利藤兵衛という人が酒改めに来たという記録があるんです。たぶん当時は、酒造株を与えられて造っていた時代だと思うんですよ。だから、そのときに来たというのは、それ以前から造っていたということなんでしょうけど、それは定かでないんですね」(小澤酒造株式会社取締役副社長 山崎達雄氏)
つまり、元禄15年というのは、現在確認できる最古の記録という意味で、実際には同社の酒造りの歴史はさらにさかのぼるということらしい。もっとも、小澤家そのものの歴史については、おおよそわかっているという。
天正元年(1873年)武田信玄が遠征先で客死し、同10年(1882年)勝頼が天目山の戦で自刃して甲斐武田家は滅亡する。その際、再興のための軍資金を分ち、何人かの武将が各地に落ち延びた。そのなかの一人が、小澤家の先祖だというのだ。
確かに、青梅街道は別名甲州裏街道とも呼ばれ、奥多摩を越えると山梨県に入って塩山市にいたる。この道を逆にたどって落ち延び、山間の沢井に落ち着いたというのは納得がいく。事実、現在も小澤家の家紋は武田菱だというからこれも傍証にはなるだろう。そして江戸期に入り、武田家再興の望みが断たれたとき、その軍資金を元手に林業を始めたのだという。
たび重なる火災に襲われた、江戸という木材の大消費地を眼下にした沢井は、林業を営むには最適の地である。こうして得た資金と、豊富で清冽な水が小澤家を酒造業へと導いた。
では元禄15年以降は記録が残っているかというと、これも残念なことにほとんどない。おそらく戦後の物資不足、紙不足のおりでもあろうか、貯蔵タンクを密閉するための木蓋の目張り用に、溶かしてフノリとして使ってしまったというのだ。 |