世界一シンプルなワインリストをおく店

ひょっとするとこれはニューヨークに限ったことではないのも知れないが、ともかくこの街には変わった名前のバーが多い。「下のバー」や「G」や「ジョンソンズへようこそ」ならばまだ許せるが、「ロビー」、「リカーストア・バー」、「ザ・バー」となるともう許容範囲を超えている。例えば、友人と「ロビー」で待ち合わせをするときなど、「じゃ、六時に『ロビー』でね」「えっ、どこのロビー?」「あら、いやだ。バーの『ロビー』じゃない」
「ええっ、ロビーのあるバーなんかあったっけ?」「違うわよ。『ロビー』という名前のバーよ」といった間の
抜けた会話になる。
昨年の夏、ローワーイーストサイドにできた「シラーズ・リカーバー」もおかしな名前の店だ。シラーとい
えば、ゲーテと並んで一八世紀ドイツを代表する哲学者兼詩人である。
そういえば、フローズン・ダイキリとモヒートは、文豪アーネスト・ヘミングウェイによって喧伝されたカクテルだという逸話もあるぐらいだから、これはその(多分のんだくれの)ドイツ人哲学者ゆかりのバーに違いない、とごくまともな教養人であれば考えるだろう。ところが、シラーはシラーでも、かつてこの辺りで羽振りをきかせていた精肉店から拝借した名前だというから笑える。
そのシラーズのワインリストが何ともふるっているのである。何しろ「チープ(お買い得)」、「ディーセン
ト(そこそこ)」、「グッド(美味)」の赤と白しかない。サイズも、「グラス」、「ハーフ・カラフ」、「カラフ」
の三種類という単純明快さ。ちなみにいまサーブしている「チープ」ワインは、赤が「マイポ・ヴィーニ
ャ・アンティーガ・サンジョヴェーゼ〇二」で、白が「ヴェネート・カ・ドニーニ・ピノグリージョ〇二」。
どちらもグラス売りで五ドルである。
これを注文するときのお客と給仕のやりとりがまた面白い。「チープの白をグラスで」とか、「ディーセント
の赤をハーフで」という、わけのわからない英語が、喚声や哄笑のさんざめく店内をぽんぽんと飛び交う。
よく考えてみるとこれは、アルゼンチンやチリ、東欧などのワインに不慣れなお客にとっては、すこぶる
便利なシステムかも知れない。世の中には、メニューに書いてあるワインの名前が読めないばかりに、銘酒を注文しそこねた、という苦い経験を持つ御仁が少なくないからだ。
店主のキース・マクナリーは、『ダウンタウンを作った男』の異名を取る、伝説のレストラン起業家である。
八〇年代から何軒もの店をヒットさせてきた。ひとたび彼の手にかかると、古びたドラッグストアがシラー
ズに変わり、崩れかけた倉庫が七〇年代パリ風ビストロに化ける。彼の作る店に共通するのは、既視感を伴う懐かしさだ。マクナリーは、過ぎし日の感傷や郷愁の念を、お客の意識の中に呼び起こす術を心得た、数少ない仕事師のひとりなのである。
昨年の一〇月、危うくシラーズはハードリカーの販売許可証を取り上げられるところだった。州法によると、酒類を販売する店は学校から六〇m以上離れていなければならない。
然るにシラーズは隣の高校から四三mしか離れていないというクレームが、地域の自治体からあったのだ。店の騒音に業を煮やした住民が実際にメジャーを持ち出して距離を測ったらしい。幸い弁護士の敏速な対応で事なきを得たシラーズは、「リカー・ライセンスのないリカーバー」という、とぼけた別名を頂戴することもなく今日に至っている。

(たんのあけみ:食コラムニスト、NY在住)

月刊 酒文化2004年07月号掲載