アンコールワット 酒海撹拌(カンボジア)

 ギリギリと軋みあげる音が石壁の中から染み出てくるようだ。アンコール・ワットの回廊にある乳海撹拌図の中では、永劫の時の中で神と阿修羅が大きな竜を引き合い、不死甘露アムリタを絞り出そうとしている。神も阿修羅も関係なく皆その甘露が欲しいのだ。
 世界遺産アンコール・ワットの観光拠点となっているシェムリアップは、いま海外から多くの観光客を引き付け、活気のある町となっている。強い日差しの中で遺跡見物をした後に飲むビールの味は格別だ。カンボジアのビールはブランド数、種類もタイに比べて格段に多い。最大手カンブリュー社のアンコールビールのトレードマークはアンコール・ワットのシルエット。アンコール・ワットはカンボジア人の誇りとする9世紀から15世紀までインドシナ半島の大部分を支配したクメール王国の象徴である。このビールはまさにカンボジアの歴史を背負ったビールといえるだろう。
 カンブリュー社の社史によると、前身のSKD社(Societe Khmere des Distilleries)は1960年代から旧宗主国フランスのビール醸造技術の移入を始め、1965年にノロドム・シハヌーク(のちカンボジア国王)を代表にして南部港湾都市シハヌークビル北部に著名なカンボジア人建築家であるヴァン・モリヴァン設計の国営工場を建設し、1968年から公式に製造を開始した。しかし、その7年後に始まるカンボジア内戦によってビール製造は中断。1992年内戦が終結し、ようやく甘露アムリタのごとく滴り、生まれたのがこのアンコールビールなのだ。
 経済発展の進むカンボジアでは様々なビールが販売されている。主流はプノンペンビール、カンボジアビールといった大手ブランドがあるが、後発のキングダムビールも盛んな宣伝戦略を打ち出しており、近年人気が高まっている。海外ブランドではアンカービール、タイガービール、ABCビール、ハイネケン、タイ産のビールも見かける。また、ビールの種類で特に面白いのはスタウトだ。アンコールビールは2011年にExtra Stoutを販売したが、現在各大手ブランドが競って製造を開始している。カンボジアでは絶対に試してみること勧めしたい。私のお気に入りはプノンペンビールのスタウトで、まろやかな苦みとコクが特徴だ。
 シェムリアップでビールを飲む場所にこだわるなら、バンテアイスレイ・レストランに行っていただきたい。ここは、1973年、クメールルージュの支配下にあったアンコール・ワットの写真を撮るために訪れ、死亡した戦場写真家の一之瀬泰造氏が下宿をしていた店。一之瀬は消息を絶つ最後の日までこのレストランの窓から遥かにあるアンコール・ワットのシルエットを見ていたのだろう。現在は彼の写真ギャラリーとなっており、撮影した内戦中のシェムリアップを偲びながらビール飲むことができる。
 さて乳海撹拌の話の結末に戻ろう。最後に神々の目を盗み、アムリタを手にしたのはラフという阿修羅であった。しかし、太陽と月の神に告げ口をされ、ラフはアムリタを呑みこんだ瞬間に、ヴィシュヌに首を切り落とされてしまった。そのためラフは首から上が不死となり、時折、告げ口をした太陽や月を呑みこみ、月食日食を起こす悪魔となった。内戦は終わった。カンボジアの歴史と内戦の中で滴り、生まれたビールを飲むことで、もはや首を落とされる心配はないだろう。瓶に映るアンコール・ワットのシルエットを見ながら、この町の平和に酔いしれよう。
(にしだまさゆき・タイ在住)
2015年春号掲載

月刊 酒文化2015年02月号掲載