恋とワインと人生と

 世の中には、この人だったら朝まで二人きりで飲み明かしてもだいじょうぶと、何も起こらない前から女性を安心させてしまうタイプの男性がいる。往々にして彼らは、女性の良き理解者だったり、年がいもなく恋に初心なロマンチストだったりするが、押しの弱さが災いして、折角のチャンスをものにできず、ああ、やっぱりあの人、人畜無害だったわ、と心ひそかに憧れる女性に思われたりする。
 話題の映画「サイドウェイ」の主人公、マイルスも、どちらかというとその類の中年男である。小説家になる夢も、別れた前妻のことも、潔くすぱっと諦めることができずにうじうじしている。その上、「薄毛・小太り・不器量」という中年三重苦を背負ったしがない国語教師だ。
 しかし、そんな冴えないマイルスも、ピノノワールの話になると、なかなか味な側面を見せる。結婚を間近に控えた売れない俳優の友達と連れ立って訪れた、サンタバーバラのワイナリーで知り合った知的な女性、マヤとのワイン・トークは、実にふくいくとしていて、含蓄があり、その会話自体が良質のワインのようだ。とりわけマヤが、「飲みごろを逃したらあとは味が落ちるだけ」と、ワインを人生に喩える場面は、とうに(人生の)飲みごろを逸してしまった筆者にとって、しみじみと自分の半生を顧みる感慨深いシーンとなった。
 結果として、悪友のために思いついた独身最後の小旅行が、マイルスにとって掛替えのない自分探しの旅になるわけだが、無名の役者ばかりを起用したこの低予算映画が、アメリカのワイン業界に与えたインパクトは、制作側も予期しないものだった。合計84の賞を獲得し、栄えあるアカデミー賞最優秀脚色賞に輝いた同作品が、劇場で公開されたのが、昨年の10月22日。それから1月15日までの12週間に、37万ケースものピノノワールが売れたというのである。
 調査を行ったACニールセン社によると、ピノノワールの全米小売売上高は、前年比15.5%増、映画のロケが行われたカリフォルニア市場では、なんと33.2%も伸びている。ちなみに、全米のワイン売上高は、前年比1.8%増え(カリフォルニアでは13.7%)、映画の中でマイルスがあまりよく言っていなかったメルローですら、2.9%売上が伸びている。
 いやはや凄まじい影響力である。巷では、この映画のことを「ワイナリー・ムービー」と呼んではばからない。聞けば、シーズンオフにも関わらず、サンタバーバラのワイナリーには、連日のごとく大勢の観光客が押し寄せているとか。
 年間、何億円、何十億円もの宣伝広告費を使うぐらいであれば、多少地味ではあっても、この「サイドウェイ」のような、観た者ひとりひとりの心のひだに沁み透る、ほのぼのとした小品を作ったほうが、よほど大きな売上アップが期待できると思うのは筆者だけであろうか。
 数ある映画の中には、ラーメンやオムライスが無性に食べたくなるコメディ映画や、冷えたマティーニを啜ってみたくなるスパイ映画も少なくないが、観終わった後、これほどワイン、それもピノノワールが飲みたくなる映画も珍しい。
 赤のテーブルワインの中では、1.4%とまだまだ消費量の低いピノノワールだが(メルローは12.2%)、今年はどこのレストランでも、例年より30%多くのピノノワールを仕入れているそうな。
(たんのあけみ:食コラムニスト、NY在住)

月刊 酒文化2005年05月号掲載