一人歩きを始めた日本酒

 ニューヨークに移り住んで早二一年になる。この間、米国の外食サービス業界や、流通業界における情報提供の仕事に携わってきた。仕事柄、トレンディ・レストランにもしげく足を運んだ。八〇年代半ばのニューヨークレストラン業界は、アメリカ食文化の黎明期とも言われ、新感覚の食材や盛付け技術を採用した北イタリア料理店がちらほら出てきてはいたが、まだまだ伝統的フランス料理店が幅をきかせていた。そこへメキシコ料理やベトナム、タイなどのエスニック料理が入り込んで、無国籍料理という言葉も生まれた。
 そのころの日本食レストランと言えば、スキヤキ、天ぷら、鉄板焼きが中心で、スシはカリフォルニアロールなどの巻き物を注文する客がほとんど。握りをオーダーするアメリカ人は珍しく、カウンターは独り客専用の席だと思われていた。不思議なことに当時は、真夏でも酒(英語では「サキ」と発音する)は熱燗でという客が多く、皆楽しそうに銚子から猪口へ酒を注いで呑んでいた。
 日本食がヘルシーだという考えが一般のアメリカ人に浸透し始めたのは八〇年代後半だったと記憶している。マクロビオテックなど、バランスの取れた日本食が、健康的な食生活に最適だとマスコミで騒がれた頃だ。ちょうど同じ時期に、「ヌーベルフレンチ(新仏料理)」なる、よりヘルシーで斬新な仏料理法を提唱する若いシェフ達が注目され始め、日本やアジアの食材を積極的に使い始めた。いまでこそ笑い話だが、ひとり一万円以上もする高級仏レストランに行って、すごすごと「ジス・イズ・エダマミ」とゆでた枝豆を出されたときはさすがに面食らった。
 時は移り、「ダイカン(大根)」や「シータキマッシュルーム(椎茸)」「ワサービ」「ヒジーキ」「ワギュー(和牛)」など、かつては日本食レストランでしか使われていなかった和食材が、様々な料理に活用されている。新鮮な豆腐やもやしも簡単に手に入るようになった。スシに至っては、全米津々浦々のスーパーマーケットで扱われている。あのウォルマートですら、このスシ人気に抗えず、全米に二〇〇〇店あるスーパーセンターでスシカウンターを導入すると発表したばかりだ。二〇年前、アメリカ人が、サンドイッチやピザのようにスシをほおばる日が来るだろうとは、一体誰が想像できただろう。
 スシ人気に乗じて日本酒のニーズも高まりつつある。ニューヨークでは、九〇年代からノンジャパニーズが経営する酒バーがオープンし始め、三ツ星の仏料理店や、お洒落な中華レストランのバーで、マティーニーやワインと一緒に日本酒が提供され始めた。加えて「NOBU」のような世界的に有名なレストランで大吟醸などが紹介されると、日本酒は熱燗で飲むものというアメリカ的通念が一気に崩れて、元来熱い酒より冷たくひやした酒を好むアメリカ人客が、好んで冷酒を飲むようになった。熱燗用の二級酒が大吟醸に変わったことで、飲料の客単価がぐんと跳ね上がったことは言うまでもない。
 かつては日系スーパーや高級ワインショップなど限られた店でしか扱われていなかった日本酒が、いまでは地方の酒販店や大手DSチェーンでも取り扱われるようになった。しかし、シャルドネイやメルローを上手く売りさばく売場担当者はいても、大吟醸や焼酎をアメリカ人に説明して、一献薦めることのできるマネジャーは数少ない。これから、こうした売場担当者への教育が必要になってくるだろう。
(たんのあけみ:食コラムニスト、NY在住)

月刊 酒文化2006年06月号掲載