ささやかなアメリカン・ドリーム

 幼い頃、TVでアメリカのホームドラマを見ては、海の向こうの大きな国に憧れた。どの家にもワゴン車があって、見たこともない大きな犬がいた。父親は蝶ネクタイにスーツ姿、母親はなぜか朝からダンサーが着るようなすその広がったワンピースを着ていた。裏庭にはプールがあって、夏になると父親が庭の芝生を刈ったり、隣近所の人を招いてバーベキューをしていた。TVだったか映画だったかよく思い出せないが、やはり蝶ネクタイをしめた勤め人の父親が、電車に乗って通勤するシーンがあった。電車での帰宅シーンは、朝の出社シーンと違って、父親が隣の主人と、小さなテーブルに向かい合って座り、談笑しながらスカッチ・ソーダやカクテルを、ちびちび飲んでいるのだった。日本と違ってアメリカのサラリーマンは、まだ明るいうちに会社を退け、近所のおじさんたちと電車でお酒を酌み交わしながら帰宅するのだなと、子供心になんとなくアメリカのほうが、自由で住みやすそうな気がしたのを覚えている。
 大人になりアメリカで生活するようになってから、郊外に住む蝶ネクタイの父親たちが、“パーク&ライド”という通勤システムを利用していたことがわかった。都心にあるオフィスに通うため、サラリーマンは、毎朝自宅から車で駅まで行き、車を駅の駐車場に停めてから、電車に乗って都心まで通っていたのである。ドラマや映画には映し出されていなかったが、帰りの電車のなかでできあがって、ほろ酔い気分で帰宅していた、あのいかにも平凡で善良そうな父親たちは、実は酒気帯び運転で自宅まで帰っていたのだった。
 筆者の住むマンハッタンには、ペン駅とグランドセントラル駅というふたつの大きな駅があって、毎朝夕、100万人以上の通勤客が利用している。モータリゼーションの進んだアメリカと言えど、東海岸の都心部では、電車やバスを利用して通勤している人が過半数を超える。マンハッタンに通勤している人のなかには、北はコネチカット、南はニュージャージー州から通っている人もいるが、通勤時間はせいぜい片道1時間というところである。大半は、電車で30分から40分の圏内から通ってきている。平日の3時過ぎともなると、そうした遠距離通勤者を狙って、駅のプラットホーム入り口にバー・ベンダーが出てきて、冷えたビールやワインやハードリカーを売り始める。幾つかの路線には、アルコール飲料サービス車両のついた電車もあり、午後になるとバーテンダーが、カウンターに立ってお客の注文を取り始める。こうした通勤電車での飲酒文化がいまなお残る東海岸では、毎夕バー電車で、スカッチやビールを飲みながら帰宅したくて、わざわざ郊外に引越したファンもいると聞いて、微笑ましく思った。
 それが今年の夏、すんでのところで、彼らのささやかな夢が壊れてしまうところだったのである。というのも某議員が、「(公共の)交通機関や駅の構内でアルコール飲料を販売するということは、暗に(駅から自宅までの)飲酒運転を認めていることになる」と言い出したからだ。さあ、それからがてんやわんやの大騒ぎ。聞けばバー電車のファンが音頭を取って、5,000人以上の署名を集め、弁護士を立てて正式に審議会に申し立てを行ったらしい。審議会が調査を行った結果、電車での飲酒が、事故や違反や近所迷惑にほとんどつながっていないことが判明し、まもなくバー電車の存続が決定した。さすがはアメリカ、懐の深さといい加減さだけは天下一品である。
(たんのあけみ:食コラムニスト、ニューヨーク在住)

月刊 酒文化2007年10月号掲載