真っ赤なバーボン電車に乗って

 20年以上もニューヨークで暮していると、よほどのことでは驚かなくなる。しばらく前に、アパートの1階でエレベーターに乗ろうとしたら、4機あったはずのエレベーターが一機に減っていた。それもよく見ると、張子のエレベーターで、何故かコンシェルジュ・デスクの前には、映画俳優のヒュー・グラントによく似たやさ男が、所在なさげに突っ立っている。新顔のドアマンかと思ったら、本物だった。どうも新作の映画を、ここで撮ることになったらしい。それからの数週間、私は、ヒュー・グラントの隣人として、張子のエレベーターをくぐって通勤することになった。
 敏腕のビジネスマン、マイケル・ブルームバーグが市長になってから、この街はニューヨークというコンセプトのテーマパークになった。平日でも、大型の観光バスやロケバスが、縦横無尽にマンハッタンを走り、あちこちでマネーを落としている。一代で何兆円もの資産を築いただけあって、さすがにここの市長は金儲けがうまい。金になるとあれば、マンハッタンを島ごと映画製作会社に貸してしまいかねない大胆不敵さを、この市長はもっている。
 前置きが長くなってしまった。そろそろ本題に入るとしよう。そう。去年の暮れ、グランドセントラル駅からシャトル電車に乗った時のことである。グランドセントラル駅は、ニューヨーク二大駅のひとつで、シャトルは同駅とタイムズスクエア駅の間を行き来している。最近ニューヨークで流行り始めた炉辺焼きレストランで何杯か焼酎を飲んだ筆者は、ほろ酔い気分でドアに足をかけたものの、思わずあとずさりして降りてしまった。一瞬、何が起きたのかよくわからなかったが、ともかく何もかもが真っ赤に見えたのだ。で、乗り込んだとたんに、「こりゃまずい! 降りたほうがよさそうだ」と思ったのである。
 あたりを見回すと、同じようにとまどいを隠せない様子で、状況を見守っている乗客が何人かいる。すると後部から、4、5人の若者のグループがわいわい談笑しながらやってきて、昇降ドアの前で棒立ちになっているわれわれを尻目に、さっさと電車に乗り込んでしまった。おそるおそる彼らの後ろに続いたわれわれを待ち受けていたのは、座席から壁から天井からドアまで、真っ赤に塗りたてられた電車だった。いくらクリスマスとはいえ、車両のなかを赤く塗りたてるなんてナンセンスだ、と心のなかでうそぶいたものの、目をこらしてよくよく見ると、とてつもなく大きなボトルの写真が貼られているではないか!? ボトルネックに被せられた赤いシールに見覚えがあった。メーカーズ・マークのバーボンウィスキーだ。
 やれやれ。またブルームバーグ市長に一本とられた、と思った。車両ごと広告にしてしまうなんて(それも全車両である)いかにも彼が気に入りそうなアイデアだ。一度レキシントン線の全車両を、英会話学校の広告で埋めたこともある。ネイティブスピーカーにとってはえらく迷惑な話だ。毎朝、自分にはまったく興味のない広告を読まされるのだから。
 この国では、ビルボード以外、めったにハードリカーの広告にお目にかかれない。教育上、あるいは道徳上良くない影響があるということで、メーカーが自粛しているからだ。とはいえ、クリスマスの真っ赤なバーボン電車は、笑えてよかった。数日前、同じ電車に乗ったら、嘘のように真っ赤なボトルが消えていた。
(たんのあけみ:食コラムニスト、ニューヨーク在住)

月刊 酒文化2008年04月号掲載