iPadのワインリスト

 この1週間、遠来の客が相次ぎ、普段は滅多に体験できない四ツ星レストランの食べ比べができた。昨夜食事をしたのは、マンハッタンの新観光名所、タイム・ワーナー・センターの4階で、斬新な感覚の新アメリカ料理をサーブする “パーセ”だ。同じ階の目と鼻の先には、全米一値段が高いと言われる“マサ”(寿司)がある。パーセは、ニューヨーク・タイムズ紙から四ツ星、ミシュランから三ツ星を獲得している。シェフ兼オーナーのトーマス・ケラー氏は、サンフランシスコ屈指の新アメリカ料理店“フレンチ・ランドリー”で、その稀有な創造性と技術と食に対する情熱を買われた当代きっての天才シェフだ。
 ニューヨークで何よりも贅沢さを感じさせるのは、ゆったりとしたスペースである。隣の食事客とひじとひじがぶつかり合うのが当たり前となったこの街で、パーセほどふんだんにスペースを取っている店を筆者は知らない。本来ならば、3卓入れられるスペースに、敢えて1卓しか入れない。そういったところに、この店の矜持が感じられる。心憎いのは、2層になったダイニングルームの全席から、眼下に広がるセントラルパークやコロンバスサークルの噴水が見渡せるように設計されていることだ。
 旬の食材と創造性と卓抜な調理技術を駆使した九コースのテイスティング・メニュー、給仕の精練された接客技術に加え、なかで火が明々と燃えている透明な暖炉や、ハンドバッグを置くための小さな椅子など、食事客をあっと驚かせる新アイデアが随所に見られたが、最も興味をそそられたのは、iPadのワインリストである。パーセのワインセラーの在庫は優に3000本を超える。印刷すれば90ページから100ページのワインリストになるところだ。それがiPadのワインリストだと、検索するのが簡単だし、瞬時に商品情報を得たり、在庫確認もできる。
 一度、ロンドンの老舗仏料理店で、ソムリエから300ページにも及ぶ革張りの分厚いワインリストを手渡されたことがあった。そのときは、正直言って拷問に近いものを感じた。が、テクノロジーの進歩とはありがたいものである。それにiPadであれば、暗闇でも難なく読むことができる。iPadを見ていたら、数日前、もう1店の四ツ星仏料理店“ダニエル”で、ワインリストを読むのに苦労した体験がまざまざと蘇ってきた。白状すると、筆者は遠近両用のコンタクトレンズを使っている。普通の照明だと小さな文字でも問題なく読めるが、その仏レストランでは、照明を落として、テーブルに小さなロウソクを灯していた。眼鏡であれば、外して読むこともできたが、コンタクトだとそうはいかない。ましてや着飾った紳士淑女が食事を楽しむ天下の四ツ星レストランで、指先をなめなめコンタクトを外したりつけたりするのはあまりにも無骨だ。
 ダニエルの料理も素晴らしい出来栄えだったが、その一点だけで筆者の軍配はパーセに下った。食事客の9割が50代以上という超高級店で、照明にいまひとつ心配りが足りないのは残念としか言えない。いつだったかメニューが読めずに苦労していると、おしゃれなペンライトそっとをテーブルに置いていってくれたウェイターもいたが、iPadがあれば、そんな気苦労をすることもない。
 ちなみにパーセには、100万円以上のビンテージワインが十数銘柄、マグナムは26銘柄揃っていた。何から何まで経営者の細やかな心配りが感じられる素晴らしい店であった。
(たんのあけみ:ニューヨーク在住)

月刊 酒文化2011年08月号掲載