酒への非寛容

 酒「文化」について話すとき、日本と米国の酒文化の違いで一番大きくて興味深いものは飲酒に対する社会の基本的な考え方だ。
 日本では酒は楽しい人生の一部だ。社会や日常生活のすみずみに違和感なく溶けこんでいる。人生において避けるべきものでも「必要悪」でもない。もちろん飲みすぎは避けるべきだと考えられているが、酒は第一に良いものなのだ。米国ではまるで違う。飲酒は「罪悪」として喫煙やギャンブルとひとまとめにされる。
 日本の政府の姿勢は「なるほど、人々が楽しむものなら、それに税金をかけた方が良さそうだ」その実、人々に酒を楽しんでほしいと政府は支援をする。課税を簡単にしてアルコールの流通・購買を促しているのだ。が、米国の政府の態度はまったく違う。「これは基本的に飲むべきじゃない。だから課税しよう。ついでにこれの購買も、販売・流通もやり難いようにしよう」という感じだ。実際、このためだけに導入されたような法律や、それを支える厄介な罰則がたくさんある。
 ほとんどの地域で消費者が夜間や日曜日にアルコールを買える店は限られる。日曜日にアルコールをまったく買えない場所もある。酒の自動販売機など存在しない。バーは決まった時刻に閉店し、午前2時かそこらには客を追い出して家路につかせなければならない。小売店であれバーであれ、30歳以下に見える人はアルコール購入時に身分証明書の提示を求められる。いまだにアルコールが完全に違法な場所さえある。
 行政が増税を検討するとき、まず酒税や煙草税を上げようとすることが多い。こうした税を「悪行税」と呼ぶところに、飲酒喫煙への根本的な考え方が窺われる。法律違反の罰金や罰則も厳しい。
 僕が思うに、米国とアルコールの歴史を考慮すればこれは驚くことじゃない。何しろ非イスラム国で唯一、この現代に禁酒時代を経験した国なのだから(1920年〜1933年)。再び合法化された時、アルコールは、日本のように租税当局ではなく「アルコール・タバコ・火器局」と呼ばれるものの管轄下に置かれた。火器だって? そうすると、楽しむものであるはずのアルコール飲料が、銃と変わらないと?
 これが法律や行政内にある社会環境の姿勢だ。それでも、それは本当に表面だけのことで、大部分の一般的な人々はアルコールをある程度まで楽しんでいる(特に、若者の酒の楽しみは世界中どこでも同じだ)。ほどほどに飲んでいる限り、そして性格や健康、仕事に問題ない限り、ほとんどの普通の人々はアルコールを楽しむことに寛大だ。だがそれでも、制度レベルで抵抗があるという事実は控え目に言っても興味深い。
 日本では、酒は互いの壁をとり払いリラックスするための一般的で楽しく見事な手段だと思われている。米国でも同様だが、誰もその事実を率直に認めない。日本では、「これから飲みに行く」と言ったり、「飲みに行くのが趣味」と言ったりするのを恥ずかしがることはない。米国ではもっと直接的でない言い方をするだろうし、そんな「好ましくない」ことが趣味だとは誰も言わないだろう。
 とどのつまり、アルコールについて力の抜けた姿勢でいるという点にかけては、米国が日本から学べることはたくさんある。この文化が今にも変わるという事態はそう簡単に起きないだろう。だが最近の日本酒人気はちょっとしたプラス効果をもたらしそうだ。
(ジョン・ゴントナー:日本酒ジャーナリスト)

月刊 酒文化2005年03月号掲載