パリ・モンマルトルぶどう収穫祭

 フランス中がぶどうの収穫祭で賑わう季節になった。田舎だけでの話と思いきや、大都会パリでも、毎年一〇月初めに「モンマルトルぶどう収穫祭」が開催される。
 パリを中心とするイル・ド・フランス県は、一九世紀以前、四万二〇〇〇ヘクタールのぶどう畑が広がるフランス一のぶどう産地だった。今でも、モンマルトルの丘の上にはぶどう畑一五五六平方メートルが残っている。ガメー種が七五%、ピノー種二〇%、そのほかシベル、メルロ、ソヴィニヨン・ブランなどの種類が栽培され、毎年採れる一〇〇〇kgあまりのぶどうから造られる赤ワインは「クロ・モンマルトル Clos Montmartre」という名称で「モンマルトルぶどう収穫祭」で限定販売される。
 モンマルトルのぶどう園には長い歴史がある。ローマ帝国時代に始まり、一〇世紀以降、モンマルトル産白ワイン「グット・ドール Goutte d'Or」は「ワインの王」として名を馳せた。一二世紀、国王ルイ六世がこの土地を買い上げ、ベネディクト派修道院を建設すると、ぶどう栽培は修道女たちによって営まれることになる。そして、中世期を通じて、四桝=約四〇〇〇リットルの「グット・ドール Goutte d'Or」が戴冠記念日のお祝いとして王に贈られた。
 その後一五世紀、イギリスとの百年戦争でフランスは疲弊。経営不振の修道院はぶどう畑を売りに出し、近辺にぶどう園経営者や農民が住みつくようになるが、一六世紀に郊外の歓楽地として栄えるようになった。パリ市内に商品を持ち込むには物品入市税を払わなければならなかったため、郊外のモンマルトルに、キャバレーやビストロなど飲食店が立ち並ぶようになったのだ。パリジャンたちにとって、モンマルトルは、安く飲み騒ぎに行く場所として定着し、「グット・ドール Goutte d'Or」、「サカリー Sacalie」、「ソヴァジョン Sauvageonne」といったワインが「ピッコロ・ド・モンマルトル Picolo de Montmartre」という総称で親しまれていたという。
 一八六〇年、モンマルトル村はパリ市内に組み込まれる。産業革命時代、地方からパリに出稼ぎが急増して、住宅問題が深刻化したためだ。農地は不動産業者に買い取られ、ぶどう畑に替って安普請の労働者向けアパルトマンが建設されるようになった。
 イラストレーター、フランシスク・プルボーの発案で、モンマルトルのぶどう畑が再び開園したのは一九二九年、約七〇年後のことだ。二〇〇〇株のぶどうの苗が植えられ、以来、毎年モンマルトル収穫祭が開催されるようになった。
 一方、伝説の白ワイン「グット・ドール Goutte d'Or」は、その後、第二の人生を歩んでいる。パリでいちばんコスモポリタンな通りとして有名なグット・ドール通りとブルゴーニュのマコネー地区ヴィレ・クレッセ Viré-Clessé村が姉妹村になり、「グット・ドール Goutte d' Or」とネーミングされるキュヴェを造ったのだ。今回のモンマルトル収穫祭のイヴェントのひとつとして開かれたデグスタシオン会でも、このワインは人気を博していた。伝説の名酒の名に恥じない味という噂である。(なつき・パリ在住)

月刊 酒文化2010年12月号掲載