カルヴァドス

 フランスはさまざまな異文化圏からなる国だ。現在の国境ができあがったのは、一七世紀、太陽王ルイ一四世の統治下のこと。原型となるフランク王国をクローヴィスが建設したのが四八六年だから、国家統一に一二世紀はかかったことになる。それだけに、「フランスでは」と一概に定義するのは難しく、それぞれの土地にそれぞれの酒があり、それにまつわる習慣がある。
 ノルマンディ地方の友人に聞いてみた。「ノルマンディー人がいちばん誇りに思っている飲み物ってなに?」。「カルヴァドス!」と即座に答えが帰ってきた。シードルを蒸溜してできるリンゴのブランデーであるカルヴァドスはAOC(原産地呼称統制)の対象でありノルマンディーならではの酒だ。
 ところでTrou normand(ノルマンディーの穴:この場合の「穴」は空腹感をさすものと思われる)ということばがある。フルコース料理の半ばあたりで、小さなグラスで飲むカルヴァドス一杯のことだ。消化を促進し、空腹感を維持し続ける効果があるということらしい。ノルマンディー料理の特徴はバターや生クリームを使ってこってり仕上げることなので、たしかに胃にもたれる。しかし、それだからといっておいしそうなものを食べる楽しみを諦めてたまるものか、そんなエピキュリアン精神からうまれたのが、「ノルマンディーの穴」かもしれない。現在は、カルヴァドス風味のリンゴのシャーベットなどが代わりにでてくることのほうが多い。
 ブリア=サヴァランと並んでガストロノミーの第一人者として知られているグリモー・ド・ラ・レニエールGrimod de la Reynière(1758-1838)は、食事の際の酒の飲み方について次のような三段階に分けている。
食前の一杯:大きめのグラスに一杯のアプサント、ヴェルモット、ラム、オー・ドゥ・ヴィー(ブランデー、ウィスキーなどの)蒸溜酒。
スープ後の一杯:スープやポタージュのあとのグラス半分ほどのワイン。現在では南仏地方の習慣と思われているが、以前はフランス全体での習慣だったという。
真ん中の一杯:これが「ノルマンディーの穴」にあたる。冷前菜の後、ロチ、魚介類、野菜、アントルメの前にあたる。カルヴァドス、パンチ、マラスキーヌ、ラムなどを飲む。
 昔ながらの「ノルマンディーの穴」を継承し続けている人々がいる。「少しだけ、しかし正しく飲もう」をモットーとする、Confrérie des chevaliers du Trou Normand(トルゥー・ノルマン騎士団)だ。良質のシードルやカルヴァドスを広めることを目的としているだけではなく、伝統に沿った「ノルマンディーの穴」の儀式を実践し続けている協会だ。カルヴァドス風味のリンゴのシャーベットを代わりに食べるようなことを邪道とする騎士団で、彼らによれば、その儀式は二六段階に分かれるそうだ。グラスをもって起立。まずは視覚を総動員してカルヴァドスが澄んでいるかを見る。色が明る過ぎず濃過ぎもしない五、六年ものがいちばん飲み頃だそうだ。次は嗅覚、香り高さを吟味。それから唇を湿らせる。そして一口だけ飲むのだが、そのときにグラスの上の部分に溜まっているエーテルも同時に味わう。それから一気に飲み干す。この二六の動作に従えば、アルコールが四〇度のカルヴァドスでも頭がクラクラすることはなく、食欲は衰えず、余裕をもって次の料理に舌鼓を打つことができるそうだ。
(なつき・パリ在住)

月刊 酒文化2011年06月号掲載