潮風と野生のハーブが香る酒

 海のない内陸の国に住むハンガリー人にとって、一番身近なビーチリゾートは隣の国クロアチアにある。夏になるとイストリア地方のアドリア海沿岸の町はハンガリー人、そして他の近隣諸国の観光客で賑わう。イストリア地方からさらに南下すると、青く光る海に無数の島の散らばるダルマチア地方に辿り着く。アドリア海の真珠とも呼ばれる街ドブロヴニクをはじめ、宝石のような美しさを誇る島々は昔からヨーロッパの観光客を魅了してきた。ここ数年は日本からの観光客も増え続けていると言う。
 ダルマチア地方の最大の都市はスプリット、この地方出身の友人に誘われ、これまで何度か訪れている。ブダペストから夏の間は直通の夜行列車も出る。約一六時間ガタンゴトンと列車に揺られ翌朝到着、駅舎を出ると目の前にアドリア海が広がり、途端に長旅でこわばった筋肉も緩んでしまう。この街に来たら必ず立ち寄るの友人おすすめのレストランがある。ブダペストではなかなか手に入らない新鮮なシーフードに舌鼓をうち満腹になった頃、ウェイターが食後のドリンクを薦めてくる、おすすめは『トラヴァリッツァ』という名のダルマチア地方名産の酒だ。
 運ばれてくるのはショットグラスに注がれた淡い黄色をした透明なリキュール。『ジヴェリ!(乾杯)』と声をかけながら杯を合わせショットグラスを口に近づけると、キリッとしたハーブの香りがまず鼻に飛び込んでくる。辛口のすっきりとした飲み口はグラッパに近いが、口の中にはハーブの香りがしっかり広がり、飲み干した後にはそれが鼻に抜ける。
 原料はブドウ、蒸溜してダルマチア地方に自生する様々なハーブ、例えばキャロブやフェンネル、ローズマリーやジュニパーなどを漬け込むと言うが、そのレシピは千差万別、各家庭によって異なる秘伝のハーブ調合率がある。もちろんスーパーや店には商品化されたトラヴァリッツァも並ぶが、ダルマチアの人々にとっては『ドマチェ(自家製)』のトラヴァリッツァが基本だ。
 アドリア海に散らばる島にもそれぞれ個性がある。オリーブの木の葉が太陽の光をキラキラと反射している島、船で近づくと爽やかなグリーンノートが香ってくるほどパインツリーの生い茂る島、巨大なサボテンやアロエが自生している島、トラヴァリッツァに漬け込まれるハーブの割合は各島によっても違いがあるようだ。
 友人のボートに乗り、とある島の小さな湾に出かけた。海水浴を楽しんだ後、隣の湾まで散歩に出かける。ごつごつした岩がちの道に自生するハーブ、ローズマリーの茂みは小さな子が隠れる事ができるほど大きく、葉先を摘み取ると強い香りが立ち上る。他にも名前のわからない様々なハーブが自生しているので、友人達といろいろな葉をむしっては香りを確かめながら歩いた。中にはびっくりするほど強いスパイス系の芳香を持ったハーブもあった。そういえばランチを食べたレストランで飲んだトラヴァリッツァ、たしかこのハーブの香りもしたなぁ、などと思い浮かべながら辿り着いた隣の湾、そこにあった小さなシーフードレストランで、またレストランご自慢の自家製トラヴァリッツァを薦められる。沈む夕陽を見ながら乾杯をして一気に飲み干すと、島で過ごした暑い夏の香りが舌先に残り、この幸せな一日の締めくくりにはイカを食べようか、スカンピを食べようかなどと思いをめぐらせてしまうのである。
(すずきふみえ:フォトグラファーー・ライター、ブダペスト在住)

月刊 酒文化2007年06月号掲載