ハンガリー人が愛する黒い薬草酒

 夏の観光シーズンを迎えたブダペスト、近年はヨーロッパの各都市から格安航空会社もブダペストまで飛行機を飛ばしているので、ヨーロッパに住む人々にとってはますますその距離が近づいた感がある。近隣諸国に住む友人や友人の友人から『今週末ブダペストに行くので、いいホテルやレストランを紹介してほしい』なんてEメールや電話が増えるのもこの時期だ。
 ブダペストを初めて訪れる人が必ず聞いてくるのはハンガリー料理について。牛肉のスープ『グヤーシュ』に代表される真っ赤なパプリカの粉末をたっぷり使ったハンガリー料理は、日本人にとっては少々塩っ辛い事もあるが、一般的においしい事で有名だ。『ハンガリー料理の基本はたまねぎをラードで炒める事』などとウンチクを述べながらハンガリー料理とブダペストのレストランについて簡単に説明したら、次に来る質問はハンガリー名産の酒についてだろう。
 ハンガリーと言えばやはりワイン。場末のコチマ(飲み屋)で出されるグラス一杯100円もしない安ワインから、国際的な賞をとるほどの逸品まで、その幅はとてつもなく広い。観光の途中だったら市場の隅にある立ち飲みスタンドの安ワインで喉を潤し、レストランではウェイターに手渡されたワインメニューの中から少々高めのワインを選んで楽しむ事も出来る。ハンガリーでは昼間からカフェのテラス席に座ってのんびりワインを飲んでいても誰も文句は言わないし、朝からワインの炭酸割り(フルッチ)を飲んでいる人を見かけても驚く人はいない。
 じゃあ食前酒は? 何かハンガリー名産のお酒はあるの? と聞かれると、大きな自信に小さな不安を抱えながら『もちろん!』と答える事になる。ハンガリーには『Unicum(ウニクム)』という名のハンガリー人がこよなく愛する自慢の酒があるのだ。小さな不安の理由は、その味が非常に個性的だから。金色に輝く十字のトレードマークを真ん中につけた丸いボトルからショットグラスに注がれる液体の色は真っ黒で、冷凍庫で冷やされていたのならとろみさえある。ウニクムの歴史は200年以上に遡る。ハプスブルグ家に仕える医者が考案した薬草酒を飲んだ皇帝の『これはユニーク(ウニクム)だ』と言う一言から、その名がついたと言われている。ハンガリー人は、ウニクムは体にいいと信じて疑わない、それがどんなに酔っぱらった後だとしても。
 ウニクムを初めて目の前にした人は、必ずといっていいほどまず何かを確かめるように鼻を近づける、40種類以上配合されていると言う特定不能な薬草の香りが立ち上るが、たぶんまだ味の予想はつかないはず。不安そうにチョロっと口をつけると、薬草の苦味と同時に風邪薬のシロップのような甘さが舌先に広がり、顔をしかめる人も・・・。この時点でこれは飲めないという人がいても責める事は出来ない。何なんだ、この味! と舌先の感覚より好奇心の方が勝った人は再度ショットグラスを口に運ぶだろう、途端に苦くて甘いどろりとした黒い液体が喉に張り付く、説明のしがたい感覚、しかもアルコール度はウォッカ並みの40%、飲み干せば薬草の苦味と香りがぶわっと脳天にまで上る。さらに湧き上がる好奇心で2杯目を頼むようなら、立派なウニクム愛飲家の誕生だ。ウニクムを愛するハンガリーの人々に喜んで迎え入れられるだろう。(すずきふみえ:フォトグラファー・ライター、ブダペスト在住)

月刊 酒文化2007年07月号掲載