ニャーリ・ケルトの季節

 ブダペストの夏は湿気が少ないので東京の蒸し暑い夏に比べるとずいぶんと過ごしやすい。気温が30℃を超えていても、日陰に入れば一息つく事が出来る。ただ、35度を超える日が数日間続く熱波が来る事がある、そうなるとさすがに逃げ場が無いほどに暑い。最近ではオフィスやレストランなどには冷房が完備され始めたものの、一般家庭にはほとんど普及していない、扇風機があればいいほうだ。公共の交通機関にも冷房はついていない。昨年、ブダペスト市が新品(外国からの払い下げの中古ではない)の市電「コンビーノ」を購入し、自信満々に主要路線である環状線に走らせ始めたが、バリアフリーでもあるピカピカの新型車両にはなぜか冷房が装備されていなかった。しかも設計上、開ける事の出来る窓は小さく数が限られている。運悪く、昨年は熱波の多い夏で、直射日光を浴びて温まった車内は40℃を超え、ブダペストの市民にとっては「コンビーノ」を見るだけでもうんざりするほどの暑さだった。
 暑くてやりきれない夜は夕涼みに出かけるに限る。夕立でも降ったら気温は下がり、さらに快適になる。室内には日中の熱気が篭っているので、やはり外に出るのが正解。街中のカフェやレストランは春から秋にかけては店先や庭にテラス席を設けている。温度が上がれば上がるほど、冬の間は混みあっていた店内に閑古鳥が鳴き始める、この時期は食べるのも飲むのも外が基本になるのだ。夏の間は雨が降ることも少なく、降っても夕立が多いので、長くても小一時間やり過ごせば、テラス席にはすぐ人の姿が戻ってくる。
 夏の夜の楽しみは野外にオープンするニャーリ・ケルト(夏のガーデン)、日本で言えばビア・ガーデンのような存在。生ビールはもちろん、フルゥッチ(ワインの炭酸割り)もハンガリーの暑い夜にはさわやかだ。ここ数年人気なのは、ドナウ川の中州にあるマルギット島。ブダペストは市の中心の建物にも人が住んでいるので、階下のバーやレストランのほとんどが住人と騒音についてのいざこざを抱えている。でも、島だったら問題ない。「シャーク」と言う7区にある小さなバーはマルギット島に「シャーク・ケルト」を、地下道にある「チャチャチャ」という店も地下鉄工事で閉店中の今夏は「チャチャチャ・テラス」を、オープンさせている。市内で人気のカフェやバーも、立地的にテラス席を設ける事の出来ない店は、夏の間だけ野外のスペースを確保するのが一般的になりつつある。そして、それは毎年同じ場所ではない事が多い。
 例えば、「WB(ヴェーベー)」の愛称で親しまれている「ウェスト・バルカン」は、夏の間は座る場所の無いほどの人が集まる人気店。今から6年程前に市の中心から少し離れた、ドナウ川の川岸にオープンした隠れ家的ニャーリ・ケルトから始まり、毎年のように場所を変えて営業している。おととしから今年の初めまでは、古いレンガの壁にツタの葉が生い茂る美しい中庭のあった集合住宅の廃墟を市から借り入れ営業していた。屋内も改装して冬の間も営業していたのだが、今年に入って予定通りに建物の解体が始まり、春からはその裏の通りにある別の廃墟で営業している。だが、この場所も都市開発の計画に入っていて、営業ライセンスは今年いっぱいとの事、すでに来年に向けて新たに場所を確保したとも聞いている。
 建設ラッシュで変化の著しいブダペスト、期間限定は今が旬と言う事。夏の初めには、今年はどこにニャーリ・ケルトがオープンするかが話題になるほどだ。ゲリラ的な営業を続けるニャーリ・ケルトの人気は、当分衰えないだろう。(すずきふみえ:フォトグラファー・ライター、ブダペスト在住)

月刊 酒文化2007年08月号掲載