美女の谷と牡牛の血

 ワインのおいしい国ハンガリー、最近ではデパートのワイン売場に並んでいたり、インターネットのショップで売られていたりと日本でも比較的入手がしやすくなった。ハンガリーの代表的な白ワインはやはりトカイの貴腐ワイン、フランスのルイ14世に「王のワイン、ワインの王」と絶賛されたという極甘のデザートワインだ。赤ワインだったらエゲルでつくられる「エグリ・ビカヴェール(※)」がヨーロッパ各国をはじめ広く知られている。
 ブダペストから北東に約130km、マートラ山地とブック山地に囲まれたエゲルはバロック調の美しい教会や古い建物の残る趣のある町だ。高台に建つのは13世紀に建てられたエゲル城、石造りの重厚な城塞に登ると美しいエゲルの町並みを一望できる。1552年オスマントルコの大軍が攻めてきた際、人数的にかなりの劣勢にあったハンガリー軍はこの城に立てこもり戦った。1ヶ月にわたる攻防の末、ついにトルコ軍は撤退、エゲル城を守り抜いた城主、ドボー・イシュトヴァーンは今でもこの地の人々、そしてハンガリー史において英雄だ。
 最初の攻撃から約50年後の1596年、オスマントルコ軍の2度目の攻撃にハンガリー軍は敗れ、エゲルはオスマントルコの支配下に入る。その時代に建てられたモスクなどは現存はしていないが、ミナレット(イスラム教のモスクに作られる尖塔)だけが現在でも残こり、ヨーロッパを駆け巡る東西の歴史がこの町で交差していたことがよく分かる。
 エゲルを赤ワインの産地として有名にしたワイン「エグリ・ビカヴェール」、ビカヴェールとはハンガリー語で「雄牛の血」と言う意味だ。名前の由来には、エゲル城を攻めきれずにいるオスマントルコ軍が、深紅のワインを飲み干すハンガリー人の姿を見て、ハンガリー兵士の強さの理由は牡牛の血を飲む事にあると思い恐れたと言う逸話が残っている。ビカヴェールは3種類以上のブドウからなるブレンドワイン、品種はケークフランコシュ、そしてメルロット、カベルネ、ケークオポルトー、カダルカなど、その名の通り濃いルビー色、そして深みのある力強い味わいのワインだ。また、エゲルでは赤ワインだけでなく白ワインもつくられている。特にこの辺りで広く栽培されているレアーニカと言う品種からつくられるワインは、フルーティーな香りに爽やかなが味わいが心地よいエゲル特産の白ワインだ。ちなみにレアーニカとはハンガリー語で「可愛らしい女の子」の意味、雄牛の血の赤ワインとはずいぶんと対照的な名前でもある。
 さて、ワインの産地エゲルでワインを楽しみたい人が目指す場所がエゲルの町はずれにある、それは「美女の谷」、丘の斜面を掘ってつくられた穴倉のようなセラーが70軒以上ずらりと並んでいるのだ。セラーの中にはたいていバーカウンターやテーブル席がつくられていて試飲ができるようになっている。すべてのセラーをめぐるのは到底無理なので、その日開いているセラーを適当に選んで入ってみよう。店主に飲みたいワインの種類を告げると、グラスにたっぷりとワインが注がれる、値段も約50〜100円ほど。美女の谷はワイン好きだけでなく酒好きにとっても安い飲み屋が延々と連なる夢のような通りかもしれない。セラーによってはジプシーミュージシャンがいたり、団体客がセラーを貸しきってパーティーを開いていたりもする。音楽が聞こえるのでセラーに足を踏み入れたら、ハンガリー人のおばちゃん、おじちゃんが楽しそうに踊っているなんて事もある。観光客も多いが、地元の人が立ち寄って一杯飲んでいたり、量り売りで購入できるワインをペットボトルや10リットルサイズの入るポリタンクに注いでいる姿も目にする。美女の谷のセラーでは、ボトル詰めされるような洗練されたワインはあまり見かけない。地元の人に混じって樽だしワインを味わう、ハンガリーならではの気軽なワインの楽しみ方を実体験できる場所でもある。
※地名はEger(エゲル)ですが、「エゲルの」と言う意味のハンガリー語は「Egri」なので、「Egri Bikavér(エグリ・ビカヴェール)」となります。
(すずきふみえ:フォトグラファー・ライター、ブダペスト在住)■

月刊 酒文化2008年05月号掲載