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日本有数の豪雪地帯である新潟県上越市に、125年の歴史と伝統を持つ本格ワイナリー岩の原葡萄園がある。ここから生まれた「マスカット・ベーリーA」は、昨年フランスのOIV(国際ブドウ・ワイン機構)により、ワイン用ブドウ品種として認定された。日本のブドウ品種としては2010年の「甲州」に続くもの。これで海外へ輸出する際にブドウ品種名をラベルに記載できるようになり、国際商品への道が開かれた。
「マスカット・ベーリーA」は、岩の原葡萄園の創業者である川上善兵衛が1927年に「ベーリー」と「マスカット・ハンブルグ」の交雑によって産み出したブドウであり、日本の赤ワイン用ブドウの主力だ。今回は、岩の原葡萄園を訪ね、川上善兵衛の事跡や現在の「岩の原ワイン」について、坂田敏社長にお話しいただいた。
■農民救済と殖産興業を狙った葡萄園
―― 日本のワイン史に大きな足跡を残した川上善兵衛は、どのような方だったのでしょうか。/span>
坂田 善兵衛は、明治元年(1868年)に50haの土地を持つ大地主の6代目として、越後高田に生まれました。彼は私財をはたいてブドウ畑を開墾し、生涯を通じてワインづくりやブドウの品種改良に取り組みました。彼が播いた種は日本全国で開花して、今日の日本のワイン用ブドウの父と呼ばれています。その業績は、大きく「日本のワインづくりのルーツのひとりであること」「日本の風土に合うブドウの新品種を育成したこと」「ブドウづくりやワインづくりの普及に力を注いだこと」「ワインづくりの研究に取り組み『葡萄全書』をはじめ、多数の著作を刊行したこと」「ワインの低温発酵・低温貯蔵を始めたこと」の5つをあげることができます。彼のおかげで日本にワインづくりの基礎ができたと言ってもいいでしょう。
―― 雪国の新潟でワイン事業を始めたのは不思議ですね。どんな理由があったのでしょうか。
坂田 そこには明治という時代背景があります。今でこそ新潟県は日本一の米どころでコシヒカリがたくさんとれますが、当時はまともに米が収穫できるのは3年に1度くらい、農民はとても貧しかったのです。彼は7歳のときに家督を相続するのですが、貧しい農民の姿をみて「殖産興業、農民救済」の一念で何かできないかと考えます。そして田圃にならない山林の荒れ地を開拓してブドウをつくってワインにすれば、国富の拡大と農民救済になるという考えに至ります。
■創業のきっかけは勝海舟
―― 気宇壮大な事業ですね。しかし、どうしてワインだったのでしょうか。
坂田 きっかけは祖父の代から親交のあった、幕末の偉人 勝海舟の下で見聞したワインやブドウづくりの話だったと言われています。明治20年代のワインはすべて輸入品であり、国産化できれば貴重な外貨の流出を抑制し、国民の健康の増進にもなると考えたようです。本格的なワイナリー経営に乗り出す決意を勝海舟に伝えたところ、「志はよいが乞食になるなよ」と言われたと川上家には伝わっています。日本で誰もやったことのないワイン事業の成功は、相当に困難だと考えたのでしょう。実際、勝の予想とおりビジネス的にはうまくいかず、善兵衛は財産を失って生涯を終えます。
―― 厳しいお話ですね。以前に山梨県の勝沼でワイン創成期の頃の話を伺ったこともありますが、あちらも事業的には失敗の連続で、経営はどこも厳しかったと聞いています。
坂田 善兵衛は葡萄園をつくる前段階として1890年に自宅の庭園をブドウ畑に改造し、高価な洋種ブドウ苗木を多数輸入して栽培を始めます。同時に日本にはなかったワイン醸造やブドウ栽培の教本を海外から買い求めて、自ら訳しながら研究を重ねました。その後一部の田圃を売却した資金で裏の雑木林(現在の葡萄園のある山)を購入し、300人もの村人を雇って開拓します。3年後に約1KLのワインの醸造をおこないましたが、酸味が強く飲めたものではなかったようです。
次々に私財を処分して葡萄園に注ぎこむので、翌年には最初の妻ヲコウが、親元の意向で強制的に離縁され、帰ってしまいます。それでも彼はひるむことなく、海外から苗木を購入して品種改良を進め、低温醸造の環境を整えるために雪室をつくり、ワインを樽で熟成させるための石蔵を建設するなど改良を加えていきます。こうして酒質は向上していったのですが、売れ行きは芳しくありませんでした。
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