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廣川健太郎氏は、アラフィフのクライマーの星である。20代でヒマラヤ・アラスカなどの海外高峰登山も経験し、国内では氷瀑登攀の第一人者として活躍を続けている。2009年3月にはマッターホルン北壁を長男と共に冬季登攀、10年には、NHKハイビジョンスペシャル「大氷壁を登る 魔の山谷川岳一の倉沢第三スラブ登攀」に出演。登山と仕事に充実した人生を送るアクティブフィフティズである。東日本大震災の後は復興支援のボランティアにも力を注いでいる。
■50歳を前にマッターホルン北壁冬季登攀
―― 雪山のバリエーションルート、氷瀑、氷壁登攀ではガイドブックやDVDなども作成されていますね。厳しい登山からは引退する年齢ですが、50代になるタイミングでマッターホルンの北壁を冬季に攀ぼられたのは驚きました。
廣川 ヨーロッパアルプスの北壁は登山をはじめた頃からの念願でした。50歳のときの会社の特別休暇を使い、大学生の息子と一緒に登ることにしました。マッターホルンを選んだのは、降雪直後を避ければ雪崩の心配が少なく、氷壁登攀の比率が多いので私には比較的狙いやすいからで最初に登ろうと考えました。時間があればアイガー北壁もと考えていましたが、思わぬ滑落をして足指に凍傷を負ってしまい、はじめて足指を三本切断することになり帰国しました。
―― それは大変でしたね。それでも山をやめる気にはならなかったのですね。 廣川 ええ、好きなのでやめようとは思いませんでした。知り合いのクライマーでは足指の切断は珍しいことでもありません。リハビリをしっかりやって、翌年にNHKの撮影班と一緒に谷川岳の滝沢第三スラブという有名な氷壁を登り復活できました。
―― それまでには、大きな事故にあったことはなかったのですか。 廣川 20代の後半に谷川岳で転落して、足首の圧迫骨折をしたことがあるくらいです。でもそのときは治るまでに時間がかかり85キロまで太ってしまい、仕事も忙しかった時期なので数年間厳しい山登りからは遠のきました。その後、山岳会の後輩が大晦日の甲斐駒ケ岳で滑落して行方不明となった遭難事故の捜索を機にダイエットとトレーニングをおこない、二週間で10キロ痩せることに成功、その後も継続してトレーニングに励み、70キロを切るところまで体重を落として元のレベルに戻しました。
■登山を取り巻く社会環境にも目を向ける ―― 若いころから、よく山岳関係の雑誌に記録を発表されていましたが、登山を仕事にしようとは思わなかったですか。
廣川 文章を書いたり特定のエリアを集中して登って記録を纏めたりするのが好きなので、27歳のときに『アイスクライミング』という本を出しました。以来、本を6冊、DVDを3本つくりましたが、これからも続けていきたいと思います。山を仕事にというとプロガイドなども考えられますが、怪我をすると収入がなくなるし、自分の好きな山に行けなくなりますから子供を3人抱える身としてはちょっと難しかったですね。
―― 仕事もして山も登ってというとどんな日常生活になるのでしょうか。
廣川 サラリーマンをしていて、沖縄や名古屋など転勤も経験しました。どこで暮らしても週末は山に行くことが多く、現在も土曜日の夜を自宅で過ごすことはほとんどありません。最近は、山を登るだけでなく、公益社団法人東京都山岳連盟理事もしていて山に関わる事務局や捜索に出ることもあります。特に2013年は東京国体の山岳競技の運営を都岳連がおこないスタッフとして忙しかったです。こういう活動を通じて安全登山の啓蒙や救助捜索など全体の環境を整え、登山を活性化させることも大事だと思っています。
―― 行きたい山はもう登りつくしたと思いますが、登りたい山はまだありますか。 廣川 マッターホルンの後に登る予定だった冬のアイガー北壁ですね。それから岩登りのルートガイドをつくり直したいので、谷川岳一ノ倉、穂高の滝谷、屏風岩などへDVD用の撮影にいきたいと思います。会社勤めを終えたらもう一度ヒマラヤにも行きたい。
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